トーマス・ワトソン・シニア トーマス・ワトソン・シニアは不幸にも的外れな予測をした。

 「世界中で売れるコンピュータはおそらく5台程度にすぎないだろう」

 コンピュータの市場予測は間違えたものの、ワトソンはIBMを工業的にも技術的にも巨人に育て上げた。

 ワトソンは馬と荷車を使ったピアノの行商を卒業し、ナショナル・キャッシュ・レジスター(NCR)に入社して最新のテクノロジー、キャッシュレジスターの販売を手がけるようになる。商売と社会的な責任について教えてくれた聡明なジョン・パターソンのもとで、自分なりの商売の仕方を身につけた。考えが対立し、パターソンから解雇の宣告を受けたとき、ワトソンは社宅とスポーツカーは返上したものの、企業の文化や働く環境に対する進歩的な考え、そして「THINK!(考えよ!)」と書いた小さな看板をしっかりと持って出た。

 のちにIBMとなるコンピューティング・タビュレイティング・レコーディング社に入ると、企業の変革のシナリオを書き、研究開発に資金を注ぎ込んでわくわくするような新しいテクノロジーを開発して、セールス部隊を盛り上げた。1956年に他界したときには、売上高が400万ドルから10億ドルを突破するまでになっていた。

生い立ち

 トーマス・ワトソン・シニアは1874年2月17日、ニューヨーク州キャンベルで生まれた。父はニューヨーク州の北部で農業を営み、ワトソンの幼年期は伝統的な19世紀の田舎の生活を送っている。厳格な道徳律を規範にした生活だった。尊厳、他者への尊敬の念、自尊心、誠実な仕事、楽観主義、そして忠誠がその幼年期を通じてワトソンの中に深く浸透した。そして同年代の仲間と違い、公私両方の生活でその価値観を貫き通した。

 最初に就いた仕事は、ニューヨーク州ペインティッドポストにある「クラレンス・リズリーのマーケット」での経理係だった。その後、18歳のとき、ニューヨーク州の北部一帯を馬と荷車を引いて回り、ピアノとミシンという脈絡のない組み合わせの商品を農家に売り込んだ。

 農家には現金がないことも多かったから、あらゆる種類の品物を取引の材料にした。たとえば、動物、農機具、農産物など、どんなものでも代金がわりに受け取り、それらをさらに転売した。これはビジネスの貴重な訓練になった。品物の価値を教わると同時に、顧客に満足してもらえれば、自分が勧める品物を買ってくれるチャンスも増える、ということを身をもって理解した。

成功への階段

 1898年、ワトソンはナショナル・キャッシュ・レジスター社に入社して仕事を始める。「ザ・キャッシュ」と呼ばれている有名な企業だった。このNCRの経営者はジョン・パターソン、変わり者でカリスマ的ビジネスマン、そして非凡な経営の先覚者で、従業員のための進歩的な施策を数多く打ち出している。