日本のレビューサイトの草分け的な存在である@cosme(アットコスメ)を運営する株式会社アイスタイル(以下、アイスタイル)。1999年にスタートした化粧品のレビューサイトは今や260万人の会員を抱える我が国有数のインターネットメディアに成長し、2012年には東証マザーズへの上場も果たし(その後、東証一部へ市場変更)、特定の業界に特化したインターネットメディアとして確固たる地位を築きつつある。ところが、順風満帆だったかのように見えるアイスタイルも創業当初からずっと苦難の連続だったという。今回は、同社CFO(最高財務責任者)である菅原敬氏に、どのように困難を乗り越えてきたのかについて話を聞くことを通じて、「CFOが備えるべきエッセンスは何か」というテーマについて迫った。

コンサルティングファームで働きながら
アイスタイルの創業を手伝う

田中 菅原さんがアイスタイルに入られるまでの経緯について簡単に教えてください。

菅原 私はちょっと変わっていまして、日本の大学を卒業後、社会人経験がないまま海外のビジネススクールへ行っているんです。イギリスの中堅校だったんですけど、ちょっと箔をつけないと就職できないと思いまして。留学後に短期就労ビザを取得して、イギリスの化学メーカーで財務アナリストの仕事も少しやっていました。また、ビジネススクールの事務局のお手伝いもしていたんですが、その仕事で日本へ一時帰国したときに就職活動をして第二新卒でアクセンチュアに入社しました。

集計屋さんの延長線上では、<br />ベンチャーのCFOは務まらない菅原 敬(すがわら けい)
英国国立ブリストル大学経営修士(MBA)修了後、1996年にアンダーセンコンサルティング(現・アクセンチュア)に入社。1999年にアイスタイル創業に参画。2000年にアーサー・D・リトル(ジャパン)に入社し、主にハイテク/通信企業に対する各種戦略立案のコンサルティング業務に携わる。2004年よりアイスタイル取締役就任。2011年よりアイスタイルCFO。

田中 アクセンチュアで経営戦略に関するコンサルティングをしていたわけですね。

菅原 最初の仕事は戦略領域ではなく、オペレーション領域でした。1990年代はBPR(=Business Process Re-engineering)を盛んにやっていたんですね。アクセンチュアのBPR部隊で様々なプロジェクトにかかわっていました。何度か希望する戦略チームへの異動の話もあったんですけど、コンサルティング会社は基本的にパートナーの個人商店の集まりですから、私は上司のパートナーに囲われてしまって動けなくなってしまいました。そこで、戦略ブティックに転職しようと思ったんです。いくつかオファーをいただきましたが、その中でもアーサー・D・リトルというブティックファームへ移りました。そこで約4年間、戦略コンサルティングの経験を積んでからアイスタイルの経営にフルタイム参画しました。

田中 当時、生粋のベンチャー企業であるアイスタイルに参画後、何年か経ってからCFOになっていますよね?

菅原 アイスタイルという会社は1999年に立ち上がったんですけれども、実際のところ、私は創業準備から手伝っていたんですよ。当社の現社長である吉松がアクセンチュアの同期同僚で同じプロジェクトに長く関与していたものですから、私は彼に自然に巻き込まれたという感じです。事業計画書の作成はもちろん、資金調達についても一緒にベンチャーキャピタルなどの投資家を回ってプレゼンテーションをしていました。私自身は、プログラミングの専門家ではないんですが、我々が最初に立ち上げたサイトである@cosme(アットコスメ)の最初の開発やテストなども手伝っていました。

田中 コンサルティングファームでのハードワークと併行してよくできましたね。

菅原 コンサルタントやバンカーって、キャリアを積んでいくと、自分もいつか実業の世界へ行きたいという想いに駆られる“事業会社に行きたい病”を発症しますよね。2000年からは非常勤取締役として名前を連ねていましたし、私ももれなくその症状にかかってしまいました(笑)。やはり、ひとつのプロジェクトが終わるたびに、いよいよ事業会社へ行きたくなってしまうんですね。コンサルティングファームからは外資系の大手事業会社へ転職する例の方が多いと思うんですけれども、私としては経営をやりたいという思いがとても強かったので、2004年、ベンチャーであるアイスタイルの経営陣として参画しました。とはいえ語弊を恐れずに言うならば、当時のアイスタイルは潰れかけていたんですよ(笑)。でも、創業者の2人が何とか会社を潰さないように必死に頑張ってきたのをずっと見ていたので、どうせ実業の世界へ行くんだったら、大変なベンチャーに自分から突っ込んでみたくなったんです。