戦国武将といえば軍人というイメージが強いですが、同時に、国の経営者、為政者でもあります。今回ご紹介する『戦国武将のマネジメント術 乱世を生き抜く』をご覧になれば、彼らのマネージャーとしての意外な側面が垣間見えるでしょう。

古くから現場への権限移譲を
進めていた戦略家・武田信玄

武田信玄は現場主義、徳川家康は合議制を好む<br />戦国武将をマネジメントの観点から斬る意欲作童門冬二著『戦国武将のマネジメント術 乱世を生き抜く』 2011年3月刊。30人の戦国大名について、経営者としての側面を紹介しています。

 例年、武田信玄の命日にあたる4月12日直前の金曜日から日曜日にかけて盛大に開催される「信玄公祭り」を見学するため、去る4月4日の土曜日午後、JR甲府駅に降り立ちました。祭り中日のこの日は、夕刻から勇猛果敢な甲州軍団による出陣の儀式が執り行われ、戦国時代へと一気にタイムスリップします。1500人規模の武者行列に象徴される一大戦国絵巻が繰り広げられるとあって、駅前平和通りは早い時間帯から観光客や見物客でごった返していました。

 武田家は清和天皇を祖とする清和源氏の流れを汲む名族。その第19代当主を務めた武田信玄は、山梨県が誇るスーパースターです。「風林火山」の軍旗を用いたことから“甲斐の虎”と呼ばれた信玄は、織田信長や豊臣秀吉などに匹敵する人気戦国武将の一人でもあります。富士山と並ぶ、山梨県きっての観光資源であることは言を俟ちません。

 信玄はまた、戦国屈指の戦略家といわれ、信長が畏怖し、家康が密かに尊敬した武将であったと伝えられています。本書『戦国武将のマネジメント術 乱世を生き抜く』には、そのような戦略家としての側面が紹介されています。

 たとえば、一般企業における企画・人事・財務・広報といった機能を「管理中枢機能」と呼びますが、武田信玄が身を置いた「つつじヶ崎の館」は小さくて狭い城だったそうです。すなわち、管理中枢機能を担う幹部たちをたくさんは収容できない。いきおい、エキスパートだけを選ぶ少数精鋭主義を採り、本社(本城)で余ったヒトとカネは支店(現場)に回したというのです。

これは、
「小さな管理中枢機能と大きな現場」
 といっていいだろう。皮肉な見方をすれば、現場を大きく堅牢で立派なものにし、それに見合った人員と予算を配置したのだから。
「多少のことがあっても、支店長はすぐ本社に『どうしましょうか』と駆けこんでくるな。おまえたちの入れるような広さは、本社にはない。現場で判断して責任を持て」
 といっているように思える。信玄はよく朝のミーティングを開いたという。戦略会議だ。二十四人の支店長を集め、
「武田企業、きょう一日、いかに生きるべきか」
 を論議する。戦略が合意されると、これをすぐ支店に持って帰らせ、
「その戦略をどう実行するか戦術を立てろ。そして戦術を立てるときには、ヒラも参加させろ」
 と告げた。現場に対する情報の徹底と同時に、末端からの経営参加を促したのである。(40~41ページ)