通算参拝数1万回の「日本の神さまと上手に暮らす法」の著者・尾道自由大学校長・中村真氏が「神さまのいるライフスタイル」を提案します! 日本の神さまを意識することで、心が整い、毎日が充実する。そして、神社巡りは本来のあなたに出会える素晴らしい旅だと伝えてくれます。
登拝や修験道といった言葉を聞いたことはありますか。日本は昔から自然崇拝をしてきた土地です。その信仰を象徴するものが、登拝や修験道と呼ばれる自然の中での修行の道です。今回はその内容と込められた意味についてご紹介していきます。

登拝で我を捨てる

神さまと向き合って<br />大きくなりすぎた<我>を捨てる

 僕は、尾道自由大学で〈神社学〉を教えていますが、その中でしばしば神社ツアーを開催します。

「参加してもらえれば、神さまと仲良くするすばらしさを、絶対にわかってもらえる」

 つねに自信に満ちているのですが、それは僕のツアーがすごいからではなく、「自然は絶対にすごい」という揺るぎない自信があるから
「あそこまで連れていけば、否が応でも伝わるものがあるだろう」と思うのです。
 とくに自信があるのは、由緒正しい神社を巡るツアーではなく〈登拝〉のツアー。

〈登拝〉とは、神さまに会うための山登り。山そのものが信仰されていたり、山奥に神社があったり、いずれにしろ自然崇拝が色濃く残った山の神さまを訪ねる旅です

 二〇一三年六月、世界文化遺産に登録された富士山は日本のシンボルであり、世界でも指折りの観光名所ですが、山自体を神さまとする山岳信仰の対象でもあります。
 昔の日本で山に登るのは、修行をする人、山越えをしないと目的地に行けない人、狩人くらいのものでした。山は危険であり、神さまがいる神聖な場所であり、簡単には近づけない。今日のような登山は近代になって広まった、ヨーロッパ式の山とのつきあい方です。

 僕の解釈だと、西洋的な考え方では、自然とは制するものです。だから開発したり、レジャーやスポーツの場として利用したりするのでしょう。そして日本的な考え方では、自然とは、決してかなわないところがある、おそろしいもの。だからそのままの姿を敬い、尊重して、ときにはおびえる。つまり“神さま”だったのではないでしょうか。

 今は日本にとっても自然は“制するもの”となっていますが、尊敬やおそれが日本人の心から完全に消えてしまったとは思いません。
 だからこそ僕は〈登拝〉をおすすめしたいのです。

登拝の際に大切なのは、慢心しないこと
「これくらい大丈夫」と油断すれば怪我をします。さほど険しい山でなくても、木の根でごつごつしていたり、急な傾斜だったり、雨上がりで滑ったりする山道を歩くことは、普段の快適に舗装された道を歩くときとはまるで違います。

 神さまに会う山登りでなくとも当たり前の話ですが、慢心し、「これくらい別にいいだろう」と山でゴミを捨てることも、絶対にあってはなりません。
 便利で安全で快適な世界で暮らす僕たちは、あらゆることをコントロールできるような錯覚に陥っています。欲しいものがあれば、クリックひとつで遠い街からでも翌日に届き、海の向こうの人と無料で顔を見ながら通話できる。昔の人には奇跡でしかなかったことが、誰にでも当たり前にできるようになっています。
 不治の病のいくつかは克服され、一生かけても食べる機会がなかったような珍しい食べものもお金を出せば味わえ、蛇口をひねれば新鮮な水がいくらでも出てきます。

 そうすると僕たちは、うぬぼれてしまう。万能感を抱いてしまう。慢心し、自然すらなめてかかってしまうのです。自分の弱さを忘れ、人の弱さを忘れ、自然の強さを忘れる。これはとても怖いことだと僕は思います

 すっと手を伸ばして星がつかめるのなら、星のきらめきは特別なものではなくなってしまいます。あの輝きと美しさに見惚れ、憧れることもなくなるでしょう。同じように、すべてが当たり前だったら、何に対しても感謝はできなくなってしまいます

 ところが〈登拝〉をすると、当たり前が当たり前でなくなります。
 歩くことすらキツい。走るのは危険だし無理。タクシーを拾うなど不可能。持参の水でなくコーラが飲みたいと思っても、コンビニも自販機もありません。
 普段の生活で「最近、慢心しているな。もっと謙虚になったほうがいい」と意識することも必要ですが、これは簡単そうでとても難しいこと。相当な精神力がいるでしょう。座禅を組みたくても組み方がわからないし、瞑想すれば眠くなるという人は、さほど珍しくありません。
 しかし山に行けば、誰でも慢心を捨てられます。何時間もかけて汗だくになり、息も絶え絶えに山を登れば、イヤでもいろいろなものが見えてきます。自分が絶対にかなわない自然という大きなもの、そのなかで生かされている自分という小さなもの

 そうやって登るうちに、だんだん、だんだん、いらないものが削ぎ落とされていきます。いつもと違う気分になっていきます。

 しばらくすると、疲労と道の険しさに心も体も支配され、何ひとつ考えられなくなります。右足を前に出し、左足を前に出し、その繰り返しで精一杯。山の上の神社にたどり着く頃には、頭の中は真っ白になり、無我の境地になれるのです。

無我夢中にならないと出会えない、それが山の神さまだと思います

「登れば人生が変わる」なんてことはあり得ないし、そんなインスタントな感動はほしくない。しかし、山の上の神社を訪ねれば、どんな人でも自分をなくして神さまに出会うことができる。僕はそんな気がしています。

◆今回の気付き
登拝で大きくなりすぎた「自分」を整える

修験道で生と死を味わう

 登拝は険しい山でなくてはいけないというわけではなく、東京の高尾山や山のようなところでも一向にかまいません。「山登り、ハイキング」という意識を、「神さまに会う旅」という意識にスイッチするだけで、見える景色が違ってきます

 しかし、より深く自然という神さまに出会いたい人のために、僕自身が修行もしている〈修験道〉について簡単にふれておきましょう。

 修験道は飛鳥時代に生まれ、奈良時代に生きたという修行者が開祖とされています。
 古来ある山岳信仰に仏教がまじりあい、神道の影響も受けて今のかたちになったとされ、山に籠もって修行をすることで悟りをひらきます。道教、イスラム教など、外国の宗教も取り入れているようです。

修験道は宗教というより、実践的な修行を通した一つの道であると僕はとらえています。

 一番大きな要素は山岳信仰であり、修験道の行者を〈山伏〉ということから、〈山伏修行〉としても知られています。さまざまな信仰がまじりあっているため、お坊さんも神主さんも修験道の修行をしますが、一般の人も参加できます。長らく女人禁制とされていましたが、今では女性を受け入れる修行場も多くなってきました。

 主宰によって異なりますが、危険な修行なので個人的に行くことは不可能。修行をおさめた〈行者〉あるいは〈先達〉の案内に従うことになります。行者は僧侶や神主が多いのですが、山岳ガイド顔負けに山のことを知り尽くした実務家でもあります。

 時折「登山の経験があるから、一人で平気だよ」と言う人がいますが、そういう慢心は危険です。
「身の保証はない」といった看板もありますし、「自己責任」という説明もあります。どれほど注意をしても命を落とす人もいますし、年に何回かはヘリコプターで救助作業が行われると聞きます。厳しさと覚悟がなければ挑戦しないほうがよいでしょう。

 修行のための登山というと、山伏スタイルを連想するかもしれません。白装束に袈裟がけ……黒い小さな帽子のようなといういでたちを知っている人も多いでしょう。これまたケースバイケースで、白装束で臨む人も多くいますが、登山ウエアでも問題はありません。あまりにもカラフルなものだと気持ちが入りにくいなら、白っぽいものを選ぶくらいの意識でいいと思います。足元は登山靴を履く人もいますし、僕は地下足袋にしています。

修行の舞台は日本各地にある霊山。山形県の出羽三山、和歌山県の熊野三山、奈良県の大峰山・金剛山などがよく知られています

 通常の〈登拝〉であれば、三、四時間かけて険しい山道を歩き、神社にたどり着いたところで「やりきったね!」となります。しかし修験道では、ここからが修行の始まり。〈行場〉と言われる難所がいくつかあります。
 たとえば大峰山は〈鐘掛岩〉という険しい岩を登り、有名な〈西の覗き〉という断崖絶壁から、命綱をつけて半身を乗り出し、千数百メートルの谷底を覗き込みます。落ちたら命を落とすおそろしい場所で、死をかいま見るという修行です。

 崖っぷちで恐怖にさらされながら「親孝行するか」「家族を大切にするか」といったことを行者に聞かれるので、必死になって「はいーっ!」と答えます。嘘をつく余裕もない、自分の原点に戻されるような修行で、これをやって帰ってくると、悪いことなどできません

 これら表行場も相当におそろしいのですが、東側にある別ルートを行く裏行場はさらに過酷です。〈背割岩〉〈不動登岩〉といった険しい岩場をいくつも踏み越えますが、最も厳しいとされているのが〈屏風岩〉。大きなとがった一枚岩を抱きながら一回りするのですが、突起物は最小限しかない。
「ここに左足を置いたら、次はこっちに右足」と行者に足場を教えてもらいながら一回りするのですが、思い出しただけでおそろしくてたまらない!
 修験道の修行とは、怖いし、辛いし、厳しい。死を疑似体験し、生きていることのありがたさを思い知るためです。

 他にも山形県の出羽三山は羽黒山、月山、湯殿山の三山などが有名ですが、ここはまさに死の世界を味わう場所です。
 羽黒山は険しく、登るのに骨の折れる山で、これは現世。死の恐怖を感じるほどに過酷で荒涼とした月山は、黄泉の国。下りてきて湯殿山に到着すると、御神体から出ているお湯で足湯を使わせていただく。温かくなって、再生して、現世に戻っていく。生きて、死んで、また生まれる。これが出羽三山の修行なのです。

 昔の人にとって、死は身近にありました。生きていること自体に感謝もしやすかったでしょう。今でも世界の紛争地域や疫病が蔓延している地域では、死と隣り合わせに生きる人がたくさんいます。若い頃に僕が旅した南米でも、バス停でバスを待っていた、ただそれだけなのに三歳くらいの幼い子どもが射殺されるという日常がありました。

 今の僕たちにとって、死は身近とは言えません。医療技術が進み、寿命が延び、圧倒的に死ななくなった世の中は、いいか、悪いかと言えばいい世の中でしょう。
 しかし、死が遠ざかることによって生きる実感も遠ざかる、それもまた事実なのです。
神さまと仲良くすることで、死を見つめて生に感謝することを思い出してもいいのではないでしょうか。方法はたくさんあり、修験道はその一つだと僕は感じます。

 次回は、旅行先としてリピーターが多い沖縄での神さまとの出会いについて紹介します。おおらかで自然豊かな沖縄ではどんな神さまが息づいているのでしょうか。

◆今回の気付き
死を意識することで生に感謝する