かつて、社員の離職率が28%に達しサイボウズは、どのようにして社員が辞めない「100人100通り」の働き方ができる会社になったのか? その過程と、多様性をマネジメントする手法を詳細に記した書籍、『チームのことだけ、考えた。』より、サイボウズの創業期から会社の改革に着手するまでの部分を紹介する連載の第4回です。
業績が悪くなる一方のときの社内の様子、経営者の感情が真摯に語られます。

離職率は28%に。
「マネジメント研修」は愚痴大会へ

経営の勉強代は20億円

 サイボウズの離職率は引き続き高い状態が続いていた。私が社長になった2006年1月期の離職率は過去最高の28%を記録した。正社員だった83人のうち、23人が1年後には辞めていなくなった。4人に1人以上が辞めたことになる。

 辞めていく理由はさまざまだった。より高い給与を求めて外資系企業に転職する人もいれば、昔のサイボウズの雰囲気がよかったからと小規模な会社に転職する人もいた。結婚や出産を機に仕事一辺倒なライフスタイルを見直そうと辞める人もいれば、ストックオプションを行使して得た資金を使って起業する人もいた。

 社内の雰囲気がよいはずはない。退職者が最後に出社する金曜日の18時を過ぎると、他の社員がその席の周りに集まってプレゼントを渡した。退職者はみんなの前で、次の職場への熱い思いや抱負を語った。これが毎週のように繰り返された。同じ日に2人が辞めることもあった。そのときはオフィスの2ヵ所から同時に退社の挨拶が聞こえた。「次は誰が辞めるんだ?」「自分はこのまま残っていていいのか?」。多くの社員が疑心暗鬼になっていた。私自身も不安にかられ、次に誰が辞めるのかを想像する日が続いた。

 2006年7月1日、土曜日。モヤモヤとした状況が続く現状を打破するため、「マネジメント研修」なるものを開催することにした。役員の次の層、すなわち部長やプロジェクトリーダーを務める人間を集め、サイボウズの今後のマネジメントについて考える会である。このクラスのメンバーであれば、自社をより良いものにするために前向きな議論ができるだろうと私は期待していた。

 しかし、期待は打ち砕かれた。議論が噛み合わない。互いを非難し合うだけの場になった。研修に出席すらしないメンバーもいた。全員が参加できるように、あえて土曜日に日程を設定し、会社に近い会議室を借りたにもかかわらず、彼は研修に来ず、私の依頼を無視してオフィスで働いていた。

 参加者には事前に宿題を出しておいた。「これからサイボウズをどんな会社にしたいか」を考え、自分の意見をまとめることだ。その結果、参加したマネージャー・リーダーがバラバラの方向を向いていることがわかった。買収した企業群を統括して伸ばすべきだと考えている人、新規事業の立ち上げが重要だと説く人、顧客満足を追求することがすべてだと言う人、1人1人のスキル向上に重きを置く人、製品の品質向上が最重要テーマだと信じる人、職場環境を快適にしたいと願う人。とにかくバラバラだった。世界征服をしたいと宣言する人までいた。

 この日、1日をかけて議論しながら、それぞれの意見を1つの方向性に束ねていこうと試みた。しかし、失敗に終わった。そればかりか、壮大な愚痴大会へと発展していった。「開発は現場をわかってない」「営業戦略がよくわからない」「社内に疲弊感が充満している」「若手が育っていない」「経営者は話を聞いてくれない」。感情的な発言が続々と飛び出すと、私もエキサイトしてやり合った。特に成果が出ないまま研修は終了し、居酒屋に移動してみんなで飲んだ。酒の力を借りて、その日派手に荒れた関係を補修するので精一杯だった。

20億円以上を使い果たす。
共同創業者の見放し宣言

 そこにきて業績の悪化が明確になった。2006年9月、サイボウズは業績の下方修正を発表した。買収した子会社の一部の業績が思わしくなく、全体の利益に大きな影響を与えた。私は今までのM&A戦略が甘かったことをここでようやく認識した。企業を買収するということは、単純に売上が増えるだけではなく、その会社の事業リスクを抱え込むということだった。

 その3ヵ月後には追い打ちが待っていた。子会社の業績がさらに悪化し、一部で大きな損失が発生した。2006年12月、再度業績の下方修正を発表した。前期実績で4億6千500万円の純利益を上げていたサイボウズだが、この期の純利益は2千万円まで落ち込むと発表した。私は子会社の業績をまったく読めていなかった。「半年後には子会社の業績も改善する見込みです」。M&Aを担当する役員の言葉を信じられなくなっていた。

 サイボウズは創業からずっと黒字経営を続けていた。自分たちの給料を後回しにしてでも事業の発展に投資し、堅実に経営してきた。上場した後も、無駄なお金は使わないように努めてきた。上場記念パーティを近所の居酒屋でやるような会社だ。そのため、企業規模が小さい割に財務体質は健全で、私が社長を引き継いだ時点で20億円以上の現預金が手元にあった。しかし、そのお金はM&Aで使い切り、借入金で会社を回していた。全体の売上金額は4倍になったが、利益を生み出すことが困難になっていた。子会社の状況がわからない中、さらに悪化するリスクを抱えていた。

 そして遂に組織の求心力を失う日が来た。共同創業者であり、私にとっては兄のような存在でもある畑さんから、「M&Aによって拡大戦略を続けるのであれば、自分に貢献できることはない。取締役を退任したい」と言われた。事実上の見放し宣言だと受け取った。畑さんは翌年の株主総会で取締役を退任した。

 私は大きなショックを受けていた。社長を引き受けたのは、このような状況を作り出すためではない。健全に事業成長を続ける会社を作りたかったのだ。しかし、手元の現金を使い果たしたばかりか、突然発生する子会社の損失に怯えていた。社内のマネージャーやリーダーたちと前向きな議論すらできず、会社の雰囲気は悪化していた。

 26歳で起業し、3年後に上場。私は29歳で上場企業の役員になった。自分に自信があった。自分の実力だけでなく、運の強さにも自信があった。しかし、それは勘違いだった。私は経営がまったくできない、自信過剰な若造だった。特別な運も持ち合わせていなかった。上場企業の社長どころか、数人の部下を持つことすら危ういスキルしか持っていなかった。

 そのことを自分なりに理解した。情けない気持ちで一杯だった。メンバーに申し訳なさ過ぎて、会わせる顔がないと思った。その当時、私の頭の中はネガティブなことばかり考えていて、歩いているときに「あの自動車が暴走して私をはねてくれないだろうか」と本気で思ったのを記憶している。

 「社長を辞めたい」と他の役員に相談して回った。私は社長の器ではないと伝えた。話しているうちに涙がボロボロこぼれて止められなかった。こう返された。「社長を辞めるのは簡単ですよ」。確かにそうだ。辞めるのは楽だ。もちろん続けられるなら続けたい。しかし、スキルが低い人がやるべきではない。また別の役員はこう言った。「今までのことは勉強代です。学んで返済していきましょう」。私に返済する自信はまったくなかった。

 ※次回は1/4公開予定です