事故から5年、福島第一原発の「いま」を見てきた爆発で上部の吹き飛ばされた様子が生々しく残る3号機。現在も線量が高いため、遠隔操作によるガレキ撤去が続く。1号機・2号機は、とりあえず建屋からの放射性物質の飛散防止対策が取られているのみで、未だ内部の作業に着手することは不可能な状況

2011年3月11日の大地震と福島第一原発事故は、原発の「安全神話」の終わりとなった。しかし日本には未だ数多くの原発が稼働可能な状態で存在し、福島第一原発では廃炉作業が続いている。この現実と、どのように向き合い、折り合って行けばよいのだろうか? 

悩み迷っている筆者自身の福島第一原発視察記録を、5年目のこの日に公開する。(写真/日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ))

消極的反原発の自分を深く反省した
「3.11」の夜

 2016年2月4日、私は所属している日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)の一員として、約20名の会員とともに福島第一原発の視察に参加した。JASTJには新聞記者・雑誌記者・編集者・科学コミュニケータ・フリーランスのライターなど多様な人々が参加しており、原子力発電に対する考え方や立場も各人各様だ。

「3.11」までの私は、原子力発電について立場を聞かれたら「消極的反原発」と答え続けてきた。「今ある原発は可能な限りの安全運用を心がけ、老朽化したら新規建造はやめ、原発からフェイドアウトする数十年間で次のエネルギー源を」ということである。

 1990年代の私には、原子力発電機の内部シミュレーションのために開発された流体解析ツールを半導体製造技術に応用する研究をしていた時期がある。事故が引き起こす経済的・社会的影響が極めて大きな原子力・航空・自動車業界は、「製造する前の段階で事故を防ぎたい」という切実な希望から、ソフトウェアの研究開発にも多額の投資をしていた。私は、原子力業界からやってきた掛け値なく当時最先端のツール群を扱いながら、原子力業界の人々の安全への願いと注ぎこむ技術力は、紛れもなく本物であることを実感していた。

 2011年3月11日の午後から夜にかけての私は、本棚3本が倒れたまま動かせない住まいの中で、余震に怯える2匹の猫たちをなだめていた。放射能に対する恐怖感はなかった。断片的に伝わってくる情報から、「これからの成り行きは、逃げるヒマもない最悪の事態か、東京にとどまる限りは生命健康の危険はないかのどちらかだろう」と判断していた。前者なら逃げるヒマもないので心配しても意味がない。後者の可能性に賭け、住まいの残り食糧をチェックしながら猫たちを安心させることが、最優先課題だ。猫たちを抱いたり撫でたりしながら、私は過去の自分の浅はかさを悔いた。なぜ、原子力発電の現場を一度も踏んだことがないのに「安全運用できるはず」と考えたのだろうか? シミュレーション結果が現実を担保できるわけではないことは、自分の専門分野では熟知していたくせに……。

 以後、私は原子力発電については、「現場を見たこともない人間が何を言えるか」という思いから、口をつぐんでいた。JASTJで視察ツアーが企画されたとき、迷わずにすぐに参加表明をした。もちろん、「杖歩行が若干はできるものの、基本は電動車椅子」という私の身体状況が問題とはなったが、東京電力とJASTJ側幹事の数回のやり取りで確認の末、参加が可能になった。