優れた創業者の跡を継ぐ2代目経営者は、非常に気苦労の多い立場だ。創業者のマネをしてもしっくり来ないし、かといって独自色を打ち出し過ぎても社員から反発される。自身も実質的に吉野家の2代目だった安部修仁・吉野家会長に、「2代目」の心構えを聞いた。(構成/フリージャーナリスト 室谷明津子)

創業者たるもの
トップダウンは当たり前

 吉野家は歴史の古い会社です。最初の店舗ができたのは、今から117年も前の1899年。当時、東京・日本橋にあった魚河岸で、松田栄吉がお魚屋さんを相手に牛丼を出す個人商店を創業したのが始まりです。魚河岸で働く人たちは忙しく、味にうるさい。早く、うまい牛丼を提供することが求められ、自然といまのファストフードに近いことをやっていたようです。

2代目経営者は創業者のマネをしてはいけない創業者と2代目では、経営方針が全然違うと話す吉野家の安部会長。自身も2代目経営者として、心がけてきたこととは...?(写真はイメージです)

 その後、関東大震災で魚河岸が築地に移り、さらに東京大空襲で店舗を焼失し、吉野家は再出発することになります。

 現在、「築地1号店」として残っているのは、そのときに作ったお店です。ちょうどそのころ、後を継いだのが息子の松田瑞穂。彼は牛丼屋の企業化をめざし、株式会社吉野家を設立しました。いつも私が「創業者のオヤジ」と呼んでいるのは、彼のことです。

 松田瑞穂は築地の1店舗で年商1億円という驚異的な数字を叩き出し、さらに米国からチェーンオペレーションの手法を導入して、日本で初めての牛丼チェーン店を作っていきます。あっという間に100店舗を達成し、次は200店舗へ――。急成長を続ける過程で、過剰な出店の無理が出て倒産に陥るわけですが(連載7回目記事を参照)、オヤジが現在の吉野家の全ての基礎をつくった類まれなる創業社長であった事実は、ゆるぎません。

 原料をぎりぎりまでそぎ落とし、牛肉と玉ねぎ、タレとごはんのスペックを研究し尽くした牛丼の味。「うまい・やすい・はやい」を実現する店のオペレーションと、それを支える人材への惜しみない教育。時代が変わっても古くならない「牛丼」の価値と、それを多くの人に提供する仕組みを1代で作り上げることができたのは、オヤジの先見性と事業への思いの強さ、そして執念があったからです。

 ことほど左様に、創業者というのは新しい事業の実現に向けて邁進していく人物です。前例のないことをやるのですから、トップダウンは当たり前。今日「右に行け」と言われたら、従業員は全員右に向かって走る。それで問題が発生したら、すぐに「左だ!」と言われ、また必死に左に走り出す。組織にいる人間は、いわば創業者の頭の中にあるプランの「実行部隊」なので、その事業に共感し、夢に向かって一緒に走れるヤツだけが残る。私もまた、オヤジに心酔する実行部隊の1人でした。