トコロテン72杯分の兵役退職金

 昭和21年(1946年)6月13日の夕方、浦賀港へと帰還した。

 祖国の景色が遠目に見えてきた瞬間、兵士たちの間からすすり泣きの声が起こった。幸一もまた、甲板に並んでいるほかの戦友たち同様、滂沱の涙に頬を濡らしていた。

 だが感傷的な気分に浸っていられたのはそこまでだ。

 伝染病を媒介するノミやシラミがたかっているというので、上陸するやいなやDDTの白い粉を頭からかけられ、我にかえった。

 内地で除隊になった兵隊は持てるだけの米や毛布を持って帰れたと後で聞いたが、幸一たちはドンゴロスのような袋にキニーネを1本もらっただけ。

 着いてすぐに驚かされたのが物価の高さである。

 5年7ヵ月の兵役の報酬として720円を支給されて喜んだのもつかの間、浦賀の町で食べたトコロテンが10円もしたのには仰天した。

 戦前なら5銭ほどだったのだから物価は200倍だ。すさまじいインフレを前にして、えも言われぬ焦燥感が湧いてきた。

 14日の夕刻には浦賀を出て、品川駅から東海道本線を貨物列車で終点の京都へと向かった。荷物扱いであることに不満などない。生きていることだけでありがたかった。

 一方、幸一の帰りを一日千秋の思いで待つ信や粂次郎たちはどうしていたのか。

 息子が出征している家々には戦死公報が次々に届けられている。南方の島々では玉砕した部隊も多いと聞く。終戦の報せにほっとしたものの、彼が帰還する可能性が低いことは覚悟していた。

 幸一の話題には極力触れないようにしながらも、彼のことを思わぬ日とてない。富佐子が嫁に行って夫婦2人きりとなっていた家の中は、重苦しい空気に包まれていた。

 そのうち信は心労から体を壊してしまう。

 6月10日、粂次郎は近江八幡の富佐子のところへ赴き、婿の木本寛治に頭を下げ、しばらく里に帰してやってはもらえまいかと頼みこんだ。

「それはお父さんも大変ですね。お母さんによろしくお伝えください」

 木本がだめだと言うはずもない。富佐子は早速支度をし、11日の夜、粂次郎とともに実家に戻った。娘の博子はまだ幼い。京都に向かう車中でおとなしくしてくれてほっとしたということが、富佐子の書き残した育児日記に記されている。

 3人で家に戻った時、信は氷で頭を冷やしながら病臥していた。

 幼い孫がいると家の中はぱっと明るくなる。これまで幸一のことばかり考えて息が詰まりそうだっただけに、粂次郎は富佐子たちに感謝した。

 しかし家の中が明るくなればなるほど、あと1人いてくれればという思いが募る。ひとしきり孫の笑顔に癒やされた夜、信は幸一のことを思って布団の中で涙した。

 これまで幾晩涙で枕を濡らしたことか。もし彼がすでに戦死しているのだとしたら、その知らせを聞く前にこの世からいなくなってしまいたいとさえ思った。