始皇帝の死後、急速に国家が崩壊していった秦。反乱軍の中で、二人の英雄が台頭する。楚の将軍家の血筋である若き項羽と、任侠のような生活をして下級の官職についていた中年の劉邦だ。40代のしがない中年官僚と20代のエリート将軍、正反対の二人の対決は、誰もが想像し得ない劇的な結末を迎えることに。しかしこの結末にこそ、リーダーシップの本質が表れる。好評発売中の『戦略は歴史から学べ』の著者が、新たに書き下ろす「番外編」連載第2回。

20代の覇気あふれる猛将項羽と、40代の無頼、劉邦

 6つの国々を次々と滅ぼし、前221年に秦王の政は中国大陸を統一します。政は始皇帝となり、前210年に病没。始皇帝の死後、秦の権力は宦官の趙高らに奪われ、過酷な刑罰と重税や、滅ぼされた6国の人たちにより恨みが蓄積します。やがて各地で反乱が頻発する中で、台頭してきたのが項羽と劉邦の二人です。

 項羽は紀元前232年生まれ、劉邦は前256年(もしくは前247年)生まれ。生まれに2つの説があるとしても、劉邦が24歳か19歳も年上だったことになります。

 項羽は秦に滅ぼされた楚の将軍家の血筋で、名将と言われた項燕の孫にあたります。一方の劉邦はもともと庶民であり、反秦帝国の反乱が起こるまでは、一時期は任侠のような生活を送り、地方でごく低い官職について生活をしていました。

 項羽は武勇にも優れ、反乱を起こした際には地方領主を斬り殺し、その部下十数名をたった1人で倒しています。劉邦はそのような武勇の逸話は残っておらず、戦でも何度も負けて逃げています。

 あらゆる面で正反対な二人の英雄ですが、最後に天下を獲ったのは、鬼神の強さを持つ項羽ではなく、なんと劉邦でした。なぜ、劉邦は項羽を押しのけて天下人になれたのでしょうか。

功績評価が上司のえこひいきで決まる、だから組織は崩壊する

 若く血気盛んな項羽は戦争にも強く、秦の名将章邯(しょうかん)の約30万とも言われた軍勢を、敵より少ない軍勢で散々に打ち破り降服させます。秦の将軍である章邯は、反秦の反乱軍だった陳勝・呉広を滅ぼしており、章邯の活躍が長引けば、反秦の反乱軍は壊滅していた可能性もあるほどの手腕の持ち主でした。

 その意味で、章邯を倒した項羽は秦軍の崩壊を決定的なものにしたと言えます。前206年、項羽は咸陽に火をつけて廃墟とし、秦はわずか15年で滅亡します。

 項羽は秦を滅ぼしたあと18国の統治体制を作ります。戦功のあった者に恩賞を与えますが、奮戦しながらもなにも与えられなかった猛将の彭越がまず項羽軍から離れます。以下、最初は項羽陣営に属しながら離れ、劉邦軍で大活躍した人物を挙げます。

【項羽陣営から離れた武将・参謀】
・彭越:元盗賊で、ゲリラ戦を得意とした猛将
・英布:刑罰で刺青を入れられ黥布とも呼ばれた猛将
・陳平:謀略に優れた参謀・軍師
・韓信:劉邦の天下を決定した軍事指揮に優れた武将

 のちに「国士無双」と言われた軍事の天才韓信は、項羽陣営ではまったく評価されず、劉邦陣営に移動します。劉邦の前で、韓信は項羽を「匹夫の勇」「婦人の仁」だと指摘しました。思慮の浅い猛勇であり、感情に流されすぎて不公平を生むという意味です(優れた女性管理職が多い現代では、このような指摘は当てはまらないですが)。

 この4名はいずれも、劉邦が天下を獲るためには欠くことができない活躍をしました。逆に言えば、項羽が部下の功績、人事評価を正しく行っていれば劉邦軍を圧倒できたことを意味します。天下を我がモノにする偉才たちは、自陣営の中にいたのですから。

人望ゼロの者をリーダーにして、部下たちの不満を爆発させる

 項羽のもう一つの大きな失敗は、人望のまったくない者をリーダーにしたことです。秦の名将章邯が、項羽の猛攻撃の前に降服したことは述べましたが、彼が率いていた20万人近い秦軍兵士も投降をしています。しかし、総数で項羽の軍より多い秦軍を不安視して、反乱を怖れた項羽は夜襲で秦軍兵士を全滅させ、穴埋めにしてしまいます。

 生き残った秦の武将である章邯・司馬欣・董翳は、20万人の秦人を見殺しにした者として、秦の人々から強く恨まることになります。

 ところが項羽は18国を作るとき、秦人の多い国を章邯・司馬欣・董翳の降服した秦の武将3人に統治させます。韓信は、3名を王にした項羽の失策を劉邦に指摘しました。穴埋めされた20万人の遺族の恨みと不信感は、極めて大きかったからです。

 この3人の武将は、劉邦に抜擢されて大将軍となった韓信の指揮する軍勢にあっけなく敗れます。名将だったはずの章邯は籠城でしばらく生き残るも、最後は自決。

 治める民や兵士からの人望ゼロの者たちを、トップの思惑だけでリーダーにした項羽陣営の大失策でした。人事の妙をわきまえていないトップを持つ組織の、典型的な崩壊例とも言えるでしょう。