橘玲の世界投資見聞録
2016年10月31日 橘玲

今も「歴史問題」となっている
征服者ピサロとインカ帝国の末路
[橘玲の世界投資見聞録]

「百聞は一見に如かず」というが、ペルーを訪れるまでは、インカ帝国のことは「アンデス山脈の高地に栄えた文明」という程度の認識しかなかった。しかしなぜ、そんな山の上に都市をつくったのだろうか。海岸に近い平地の方がずっと快適だし、魚介類もたくさんとれるのに。

 インディオ(これはスペイン語で「インド人」のことで南米原住民の呼称としては問題があるが、ほかに適当な呼び方がないのでこれを使う)が平地に住まなかったのには、じつはちゃんと理由がある。

 地図を見るとわかるが、南米の地理は巨大なアンデス山脈によって3つに分かれている。東側(大西洋岸)は「セルバ(森林地帯)」と呼ばれるアマゾンの熱帯雨林、山岳部は「シエラ(山岳地帯)」で農耕が可能なケチュア(標高2500~3500メートル)と不毛地帯のスニ(標高3500~4500メートル)がある。西側(太平洋岸)は「コスタ(海岸地帯)」で、アンデス山脈が大きく西側に寄っているためその幅は30~50キロしかない。さらに太平洋沖にはペルー海流(フンボルト海流)という寒流があり、これによって海面近くの空気が冷やされて上昇気流が起こらず、1年じゅう雨が降らない。アンデスから流れ出す川の周囲は農耕が可能だが、それ以外の海岸地帯はすべて砂漠なのだ(ただ湿気はあるため、冬のリマは海からの雲に覆われ1日じゅう霧雨が降っているという)。

 一方、アンデスのシエラ(山岳地帯)も日本の常識とはまったく異なる。そこは「山」ではなく、造山活動で海面がそのまま隆起した広大な平地なのだ。標高4000メートルを超えるプーナ草原はアルパカなどの家畜を飼うことはできても農耕には適さないが、湿気も少なく、ハエや蚊、ヘビがおらず、高山病に適応すれば快適に暮らせるのだという。そこで高地に都市を構え、標高の低い低地に段々畑をつくってトウモロコシなどを栽培するようになった。インカ帝国がマチュピチュのような「空中(天空)都市」を生んだのは旧大陸とは異なる宗教や文明観を持っていたからではなく、地形の制約からくるきわめて合理的な選択だったのだ。

アンデス山脈の広大なプーナ(草原)。ここは富士山より高い標高4000メートル(ボリビア)                         (Photo:©Alt Invest Com)
山の斜面を利用して整然と段々畑がつくられている(マチュピチュ)     (Photo:©Alt Invest Com)

 

一攫千金を夢見た征服者たち

 15世紀末に新大陸を発見したコロンブスはそこをインドだと信じ、「インディアス」と名づけた。最初にスペイン人が植民地にしたのがカリブ海の西インド諸島で、キューバやジャマイカ、プエルトリコ、イスパニョーラ島(ハイチ、ドミニカ共和国)の原住民がほとんど死に絶えてしまうと侵略の手を大陸に伸ばした。だが当初は南米大陸の北部(現在のベネズエラ、コロンビア)に張りついただけで、アマゾンの熱帯雨林やアンデスの険しい山々を越えて太平洋岸に達することはできなかった。だが1513年、スペインの探検家デ・バルボアがパナマ地峡を越えて「南の海」すなわち太平洋を「発見」すると、パナマ・シティを拠点として南米大陸の西側を探検できるようになった。

[参考記事]
●アイスランド首相を辞任に追いやった「パナマ文書」にアメリカの著名人の名前がなかった理由

 

 ここに登場するのが「征服者(コンキスタドール)」フランシスコ・ピサロだ。1470年頃スペイン中部(カスティーリャ王国)のトルヒージョで軍人の父と召使の母のもとに生まれ、イタリア戦争に参加したのち、一攫千金を夢見て1502年にイスパニョーラ島に渡った。その後、デ・バルボアの遠征に参加して太平洋に到達、海岸沿いを南に下ってそこに広大な領土を有する王国があることを発見した。

 当時、新大陸に渡ったスペイン人は誰もが「エル・ドラード(黄金郷)」にとりつかれていた。アンデスのどこかに黄金でつくられた都市があるという伝説で、ペルー北端のトゥンベスからやってきたバルサ(いかだ)船が金や銀を積んでいたことで、ピサロはこのまだ見ぬ国こそがエル・ドラードにちがいないと信じたのだ。――この王国は、のちに「インカ」と呼ばれることになる。ちなみに「インカ」は「王」の意味で、本来は国名ではない。原住民が自分たちの国をどのように呼んでいたのかもはやわからないため、スペイン人の呼称が使われている。

 インカ帝国を「発見」したピサロはいったんスペインに戻ると、王室(当時はカルロス1世。後に神聖ローマ皇帝カルロス5世となる)からペルー支配の権利証である「協約書」を手に入れ、故郷で120名の荒くれ男を募って征服行に乗り出した。

 1531年はじめ、ピサロ率いる二百数十名の歩兵・騎兵は3艘の船に分かれて出航し、2週間ほどでエクアドルのサン・マテオ湾付近に到着、翌年11月にはペルー北部のカハマルカ盆地に入った。

 その当時、インカ帝国はワイナ・カパック王の急死によって王位継承争いに揺れていた。インカ帝国ではまだ誰もスペイン人のことを知らなかったが、カパック王の死因は天然痘で、旧大陸から持ち込まれた病原菌に接触したインディオから感染したと考えられている。

 カパック王には母親の異なるワスカルとアタワルパの二人の王子がおり、まずは第12代王としてワスカルがクスコで即位した。それに対してエクアドルでカパック王と共に過ごしたアタワルパがキトを拠点に反乱を起こし、クスコに精鋭部隊を送ってワスカルの捕縛に成功する。その報を聞いたアタワルパは自らクスコに入城すべく大部隊を率いて南に向かったが、そこで「銀の足をした巨大な獣に威風堂々と跨り、黒や赤みがかった髭を生やし、イリャパ(雷鳴を放つもの)を手にした」不思議な男たちのことを知る。

 アタワルパは彼らを迎え撃つべくカハマルカ城に入城し、こうして1532年11月16日、インカ帝国の王とスペインの「征服者」が出会うことになる。

リマの旧市街の中心アルマス広場に面した大聖堂(カテドラル)       (Photo:©Alt Invest Com)   
カテドラルの内部。金をふんだんにつかった豪華な装飾  (Photo:©Alt Invest Com)