橘玲の世界投資見聞録
2017年3月16日 橘玲

新興国の雄・ブラジル、
銃とドラッグが蔓延する国の理想と現実
[橘玲の世界投資見聞録]

 アルゼンチンを訪れたあとは、ブラジルのリオデジャネイロとサンパウロに移動した。今回は南米の旅の最後として、この「新興国の雄」の印象を書いておきたい。

[参考記事]
●アルゼンチンで左派ポピュリズムが定期的に台頭する理由
 

偶然から生まれたブラジルという「国家」

 ブラジルという「国家」が誕生したのは、ちょっとした偶然だった。

 1492年にコロンブスがインディアス(新大陸)を“発見”すると、大航海時代の両雄であったスペインとポルトガルの間で大西洋の支配権争いが起こった。これを調停したのが教皇アレクサンデル6世で、1494年のトルデシリャス条約で、西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることとされた。

 この条約はもともとはカリブの島々を分割するためのもので、当時、南米大陸の存在はまったく知られていなかった。だがこの分界線を延長すると巨大な大陸にぶつかったことで、その東側(ブラジル)がポルトガル領となり、それ以外がスペイン領とされたのだった。

 南米は大きく3つの地域に分けられる。東北部のアマゾン川流域から南はポルトガル領で、トルデシリャス条約の分界線を大きく越えてアンデス山脈まで広がっている。カリブ海の島々をスペインに押さえられたポルトガル王室は、アフリカからこの地に大量の黒人奴隷を「輸出」しサトウキビのプランテーションを開発しようとした。

 一方、南米大陸の西側には巨大なアンデス山脈がそびえ、標高3000メートルを超える高地に原住民(インディオ)が高度な文明を築いていた。ここに莫大な銀鉱脈があることがわかって、“シルバーラッシュ”に狂喜したスペイン人は多数の鉱山労働者を送り込んだが、アフリカの黒人は高地に耐性がなく、無理な労働をさせるとすぐに死んでしまった。インディオも西洋人が持ち込んだ疫病に苦しんだがやがて免疫を獲得して人口は回復し、ペルーやボリビアでは白人とインディオの混血であるメスティーソが主要民族になっている。

 それに対して南米大陸の南(現在のアルゼンチン)には広大なパンパ(草原地帯)が広がり、ヨーロッパから持ち込まれた牛が野生化して大繁殖した。この牛の群れに寄生して暮らすようになったのがガウチョで、都市生活からドロップアウトしたスペイン系白人の男と、インディオの女性とのあいだに生まれた子孫たちだ。

 19世紀後半から20世紀はじめにかけて、港町ブエノスアイレスが大西洋貿易の拠点として発展し、貧しいイタリア南部から移民が大挙して押し寄せた。その結果アルゼンチンが、本国に次ぐ「(スペイン語を話す)イタリア人の国」になった経緯は前回述べた。

 それに対してブラジルでは、生産過剰で砂糖の価格が暴落するとともにサトウキビのプランテーションも衰退していったが、それと時を同じくしてヨーロッパでコーヒーの大ブームが始まった。亜熱帯ではコーヒーは栽培できなかったが、ブラジル南部(現在のサンパウロ周辺)の高地が良質のコーヒー栽培に適していて、アマゾン流域から黒人奴隷が大挙して南に移動しはじめた。リオデジャネイロが金やダイヤモンドの積出港として発展したこともあり、18世紀にはブラジルの重心は東北部から東南部へと大きく移動した。

 コーヒーのプランテーションはどこも多数の労働者を必要としていたため、黒人を雇い入れる際、農園主は奴隷の身分を解放して自由を約束せざるを得なかった。この自由黒人の子孫たちや、黒人と白人の混血であるムラートがブラジル国民の過半数を占めている。

リオデジャネイロのシンボル、コルコバードのキリスト像        (Photo:©Alt Invest Com)