橘玲の世界投資見聞録
2018年7月27日 橘玲

ロシアW杯会場となったカリーニングラードが辿った
900年におよぶ数奇な歴史
[橘玲の世界投資見聞録]

ソ連(スターリン)はドイツを二度と強国化させないため、中枢であるプロイセンを徹底的に破壊した

 カントやヘーゲルなどの観念論哲学、ゲーテやシラーなどの古典主義文学が花開いた「啓蒙の世紀」は、1789年のフランス革命と、その後のナポレオン戦争で頂点を迎える。

 プロイセンは1806年にフランスと開戦したものの一敗地にまみれ、西部を中心に多くの領土を失い、巨額の賠償金を課された。神聖ローマ帝国も崩壊し、約300(小さな帝国直属領を含めれば1800)あった国々はナポレンの手によって再編された。古くからの係争地であるアルザス=ロレーヌはもちろん、ケルンを含むライン川左岸(ラインラント)やハンブルク、ブレーメンなど北海沿岸部もフランスの直轄領になり、プロイセンとオーストリア以外のドイツ諸国はライン連盟を結成してナポレオンの保護下に入った。

 こうしたなか、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』に象徴されるように、歴史上はじめて「ドイツ国民」としてのナショナリズムが高揚する。その後はよく知られているように、ナポレオン支配を脱する解放戦争を経て、ビスマルクの手によってプロイセン主導の国家建設が進められていく。普仏戦争でパリを降伏させたプロイセンは、1871年1月、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン王を皇帝とするドイツ帝国の成立を宣言した。

 だがその後、第一次世界大戦に敗北したことで、ドイツはヴェルサイユ条約でアルザス=ロレーヌをフランスに割譲し、ラインラントを占領されたばかりか、西プロイセンがポーランド領となった。これによって、東プロイセン(ケーニヒスベルク)はふたたびドイツの飛び地になってしまった。やがて世界恐慌の混乱のなかでヒトラーとナチスが台頭することになるが、その背景には「奪われた民族固有の領土の回復」という国民的な情熱があった。

 だが第二次世界大戦が終わってみると、その結果はより惨憺たるものだった。ボンやケルンのあるラインラント(ライン川左岸)はかろうじてドイツ領として残されたものの、東プロイセンは南北に分断され、南をポーランド領、北はソ連の行政地区とされた。それと同時に、スターリンはポーランド東部をソ連領に組み込む代償として、ドイツ国境をオーデル川とナイセ川(オーデル・ナイセ線)まで西にずらし、シュレージェン地方をはじめとする、国土の約4分の1にあたる広大なドイツ領をポーランドに割譲させた。この領土変更にともなって何世代も暮らしていたドイツ人は追放され、略奪や暴行が横行する敗戦後の混乱のなか1500万人以上が難民となり、多くの悲劇がひとびとを襲った。

カリーニングラードには、第二次世界大戦時のケーニヒスベルク攻防戦の地下壕が残されている      (Photo:ⒸAlt Invest Com) 
ナチス時代のケーニヒスベルク。右下はこの地を訪れたヒトラー           (Photo:ⒸAlt Invest Com) 

 

 この未曽有の国境変更によって、ドイツ東部の領土は700年前の北方十字軍の時代にまで戻されてしまった。ソ連(スターリン)の目的は、ドイツを二度と強国化させないため、その中枢であるプロイセンを徹底的に破壊することだった。

 ちなみに、ソ連が提案したオーデル・ナイセ線を承認した東ドイツに対して、戦後、難民(被追放民)が強力な政治団体を形成した西ドイツは長らくこの国境変更を認めてこなかった。それが正式に解決したのは1990年で、東西ドイツ統一の条件として、ポーランドとのあいだで国境条約が結ばれた。

 だがその後も、ドイツ国内では被追放民の補償を求める運動がつづき、EU加盟を果たしたポーランドでも、ナチス時代の占領・破壊への賠償を求める保守政権が登場するなど、両国関係に暗い影を落としている。

ケーニヒスベルクにドイツ軍が建設した地下壕の司令官室 (Photo:ⒸAlt Invest Com) 
降伏文書に署名するドイツ軍司令官       (Photo:ⒸAlt Invest Com)