橘玲の世界投資見聞録
2018年12月14日 橘玲

アウシュヴィッツを強調することは
ホロコーストを矮小化すること
[橘玲の世界投資見聞録]

ドイツのユダヤ人をわざわざポーランドまで移送しなければならなかった理由

 ブラッドランドではなぜ、想像を絶するような惨劇が可能になったのだろうか。それをスナイダーは、国家(主権)が破壊されたからだという。

 ヒトラーがユダヤ人の「絶滅」を望んでいたことはまちがいないが、だとしたらなぜ、遠く離れたポーランドまで彼らを移送しなければならなかったのか? ナチスが合理的に「最終解決」を進めていたとすれば、もっとも効率的なのはザクセンハウゼンやダッハウのような大都市近郊の収容所にガス室をつくることだろう。

 しかしナチス幹部にこうした方法を検討した形跡はみられない(ダッハウにはシャワー室に偽装したガス室がつくられたが、それは稼働していないとされている)。スナイダーによれば、それはナチス統治時代ですらドイツは主権国家であり、法と官僚制が機能していたからだ。

ダッハウ強制収容所の遺体焼却施設   (Photo:ⒸAlt Invest Com)

 

 ドイツ国内のユダヤ人の資産を没収し強制収容所に送るには、こうした行政措置を正当化する法と、その法を実施する官僚機構が必要だった。強制収容所のユダヤ人(彼らはドイツ国民=市民でもあった)をガス殺するには、同様にそれを正当化する立法が必要になる。主権国家は法によって統治されているのであり、ナチスは自分たちに都合のいい法律をつくることはできただろうが、「統治者」である以上、無法行為を行なうことはできなかった。なんの罪もない自国の市民をガス室で殺害するのは無法行為以外のなにものでもなく、そのための法律などつくれるはずがなかったのだ。

 ところがこのとき、ナチスドイツには都合のいい領土があった。新たに獲得した東欧圏(ブラッドランド)で、そこでは国家の主権が破壊されているので法にしばられることなく、どのようなことも「超法規的」に行なうことができた。これが、ドイツのユダヤ人を国内の収容所ではなく、わざわざポーランドまで移送しなければならなかった理由だ。

 このことをスナイダーは、エストニアとデンマークという2つの国の比較で説明する。どちらもバルト海沿岸の小国だが、両国のユダヤ人の運命は大きく異なっていた。エストニアでは、ドイツ軍がやってきたとき(1941年7月)に居住していたユダヤ人の99%が殺害されたのに対し、デンマークでは市民権をもつユダヤ人の99%が生き延びたのだ。

 だがこれは、デンマークが民主的で、エストニアに反ユダヤ主義が跋扈していたからではない。戦前はデンマークの方がユダヤ人に対する差別が厳しく、1935年以降はユダヤ難民を追い出していた。それに対してエストニアは保守的な独裁政権だったがユダヤ人は共和国の平等な市民とされ、オーストリアやドイツからのユダヤ人難民を引き受けてもいたのだ。

 だとしたらなぜ、これほど極端なちがいが生じるのか。

 その理由をスナイダーは、エストニアがリトアニアやラトヴィアとともに1940年にソ連に占領されたあと、ドイツの占領下に入ったからだという。この「二重の占領」によって、エストニアの主権(統治機構)は徹底的に破壊されてしまった。

 それに対してデンマークはソ連と国境を接しておらず、1940年4月にドイツに占領されたあとも一定の範囲で主権が認められていた。デンマークに求められていたのは食糧の供給で、ナチスには国家を破壊する理由はなかった。

 独ソ戦が膠着状態に陥ると、デンマーク政府とナチスドイツとの蜜月関係にひびが入りはじめる。アメリカなど連合国は1942年12月には「ドイツによるユダヤ人殺害に協力した者は戦後になって由々しい結果に向き合うことになろう」との警告を発していた。ナチスがユダヤ人の「最終解決」に踏み切った頃には、デンマーク政府にはそれに協力しないじゅうぶんな理由があったのだ。

ダッハウ強制収容所      (Photo:ⒸAlt Invest Com)

 

ソ連とナチスドイツによる「二重の占領」が行なわれた場所で
資本家、知識人、ユダヤ人が根こそぎ殺戮されていった理由

 ブラッドランドでいったい何が起きたのか? じつはそこに異常なことはなにひとつなく、ひとびとは生き延びるために合理的に行動しただけだ。スナイダーの説明を単純化すれば、次のようになるだろう。

 あなたは村の一員として、貧しいながらもそれなりの暮らしができていた。村には大きな屋敷に住む金持ちと、何人かのユダヤ人がいた。

 その村がある日突然、ソ連の占領下に入ることになる。ソ連軍とともにオルグにやってきた共産党員によれば、この世界は革命(善)と反革命(悪)の対立で、善を担うのは労働者、理想世界の実現を阻むのは資本家だ。だからこそ、敵である資本家(金持ち)を殲滅しなければならない。

 この奇怪なイデオロギーを聞いたあなたは、突如として大きな幸運を手にしたことに気づく。あなたは貧しいのだから、労働者(善)にちがいない。それに対して資本家(悪)は誰かというと、村でいちばんの金持ち以外にいない。この資本家をソ連軍(共産党)に売り渡し、ラーゲリ(収容所)送りにしてしまえば、労せずして土地や屋敷が手に入るのだ。

 外国(エイリアン)による占領という極限状況であなたが生き延びようとすれば、真っ先に共産党に入党し、「革命」に協力して「資本家」を打倒し、すこしでも富を獲得しようとするだろう。

 ところが1年もたたないうちに、あなたの村はこんどはナチスドイツの占領下に入ることになる。彼らは共産主義者を敵としていたが、より奇怪なイデオロギーを奉じていた。ナチスによれば、世界はアーリア民族(善)とユダヤ人(悪)の対立で、共産主義者(敵)とはユダヤ人のことなのだ。

 あなたが共産党員であることがわかれば、せっかく手に入れた土地や屋敷を手放さなければならないばかりか、強制収容所に送られるか、場合によっては銃殺されるかもしれない。あなたが救われる道はたったひとつしかない。それは、村のユダヤ人を共産主義者としてナチスに売り渡すことだ。

 このようにして、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国など、ソ連とナチスドイツによる「二重の占領」が行なわれた場所で資本家、知識人、そしてユダヤ人が根こそぎ殺戮されていった。

 スナイダーが強調するのは、ジェノサイドはファシズムという「絶対悪」が単独で行なったわけではないということだ。主権(統治)が崩壊したなかで、ひとびとが生き残るためにどんなことでもやる極限状況が生まれると、そこから「絶対悪」が立ち現われてくる。

 これは、誰が正しくて誰が間違っているという話ではない。こうした極限状況に置かれれば、ごく少数の例外を除いて、あなたも、もちろん私も、生き延びるためにジェノサイドに加担するのだ。

アウシュヴィッツに送られたひとびとが履いていた靴  (Photo:ⒸAlt Invest Com)

 

 

橘 玲(たちばな あきら)

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 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。

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