橘玲の日々刻々
2019年4月25日 橘玲

「しーじゃとうっとぅ」は沖縄のヤンキーの絶対の掟であり、桎梏
【橘玲の日々刻々】

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 さまざまな社会調査で、日本の社会は大卒と非大卒(中卒・高校中退・高卒)の学歴によって分断されていることがわかってきた。だが私たちは(すくなくとも私は)、非大卒の世界をほとんど知ることなく、興味も持たずに生きてきた。

 そんなことを考えて、知念渉氏の『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』(青弓社)を手に取った。これは大阪の底辺高校の男子生徒(ヤンチャな子ら)の軌跡を20代前半まで追跡した貴重な記録だ。

[参考記事]
●「日本社会は大卒か非大卒かによって分断されている」という"言ってはいけない事実"

 知念氏が参与観察した高校の生徒たちは、大きく〈ヤンチャ〉〈ギャル〉〈インキャラ〉に分類された。〈インキャラ〉は「陰気なキャラクター」の略語で、〈ヤンチャな子ら〉は(おそらくは〈ギャル〉も)、学校内で自分たちを「〈インキャラ〉ではない者」と位置づけている。

 それは、かつての不良のように、〈ヤンチャな子ら〉が番長グループや暴走族のような集団(共同体)をつくらなくなったからだろう。ヨーロッパの社会学者ジークムント・バウマン(戦前のポーランドに生まれ、ポーランド人民軍兵士としてナチス・ドイツと戦い、ワルシャワ大学で社会学を学んで講師となったものの、反ユダヤ主義の風潮のなかで大学を追放され、数カ国を渡り歩いたのちイギリス・リーズ大学の社会学教授となった)は、これを「液状化する近代」と名づけた(『リキッド・モダニティ 液状化する社会』大月書店)。

 これはなにも欧米だけのことではなく、日本の不良たちも「液状化」し、族(グループ)に分かれて敵対・抗争する〈ヤンキー〉から、よりゆるやかにつながる〈マイルドヤンキー〉〈半グレ〉になり、いまやそのつながりすらなくなって、たまたま知り合った同士が即興的な関係をもつ〈ヤンチャな子ら〉になったのだろう。

 だが知念氏によれば、そのなかでも「地元」に生まれ、「地元」のネットワークのなかで育った〈ヤンチャ〉には社会(関係)資本があり、高校を出た(中退した)あともそのコネクションを使って仕事を探し、貧しいながらも安定した家庭をつくっていく。それに対して「地元」のない〈ヤンチャ〉は、最初は夢をもって働きはじめても、やがて糸の切れた凧のように都会をさまよい、「グレイな仕事」に手を染め、いつしか音信不通になっていく。

 だとしたら、ヤンキー(ヤンチャ)は、地元(共同体)があればやっていけるのだろうか。

 社会学者打越正行氏の『ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(筑摩書房)は、このテーマを考えるうえで最適な研究成果だ。

 

沖縄のヤンキーの調査をはじめたきっかけ

 広島に生まれた打越氏は、1998年、大学進学を機に沖縄での生活を始めた。

 ある日、友人たちと夜遅くまでドライブを楽しんだあと、大学構内の駐車場に自分の原付バイクを取りに行くと、そこで不良少年たちが酒盛りをしていた。そのなかの一人がバイクにまたがっていたため、打越氏は勇気を出して、「あっ、すみません」と声をかけ、バイクにカギをさそうとした。

 またがっていた少年から「このバイク、お兄さんの?」と訊かれ、「そうなんですよ、せっかく盛り上がってるのに邪魔しちゃってごめんね」とこたえると、別の少年が、「兄さんも一緒に飲まない?」と誘ってくれた。こうして大学生の打越氏は、彼らといっしょに地べたに座って乾杯した。

 不良少年たちは近所の中学校の卒業生で、仲間の一人が高校を辞めようとしていたため、友だち全員に緊急の集合をかけ、高校を辞めないように説得していたのだという(そのなかにはすでに学校を中退して働いている者もいた)。学校への不満などを口にしながら酒盛りはだらだとつづき、空が白みはじめたころようやく解散になった。

 打越氏はこの出来事がずっと記憶に残っていて、その後、何度かその駐車場に足を運んだが、彼らと再び会うことはなかった。その夜のことは20年近くたった今も鮮明に覚えているという。

 打越氏が大学に進学したのは教師になりたかったからだが、大学構内の夜の駐車場で不良少年たちと朝まで飲み明かしたとき、はじめて気づいた。「大学も高校も、彼らにとっては、一部の人間のためにつくられた場所で、しらけた出来レースが展開される場所でしかない」。公務員の両親のもと、何不自由なく生きてきた打越氏は、20歳になるまで、学校がそのような場であることを知らないままだった。「そのことが恥ずかしくてたまらなかった」と述懐する。

 その後、大学院に進学した打越氏は、学べば学ぶほど、何かを話したり書いたりすることが怖くなっていった。とくに沖縄について議論するとき、その怖れは強まった。「ないちゃー[本土の人]に、ボンボンになにがわかるのか」と自問自答し、ますます行き詰まっていった。

 そうした時期が数年続くうちに、わからないなら、わかるひとに話を聞かなければなにも始まらないと思うようになった。こうして沖縄のヤンキーの調査が始まった。

 社会学者による不良への調査としては、1980年代の暴走族を参与観察した佐藤郁哉氏の『暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛』(新曜社)が広く知られているが、打越氏の調査方法は独創的なものだった。ヤンキーの「パシリ」になって、彼らの活動に参加させてもらうのだ。

 この手法を思いついた理由を打越氏は、自分がパシリとして荒れた中学を生き延びたからだという。ヤンキーの先輩に逆らうと暴行され、かつあげされるため、休憩時間は彼らが喫煙するトイレの入口で見張りに立ち、先生が来るとくしゃみで知らせる係を買ってでた。「そんな私にとって、パシリになるという方法は、沖縄の暴走族やヤンキーの若者たちを取材する上で無理がなかったし、なにより私の性に合っていた」のだという。