橘玲の世界投資見聞録
2019年9月6日 橘玲

イギリス版「非正規雇用」でアマゾン倉庫で働いてわかった、
ブレクジットがイギリスの貧しい地方で熱烈に支持される理由
【橘玲の世界投資見聞録】

 とてつもなくゆたかな欧米諸国は、そのゆたかさゆえに社会的・経済的に排除される膨大な貧困層を生み出している。そしてこれは、日本も例外ではない。『上級国民/下級国民』(小学館新書)では、これまで主流(マジョリティ)だった「白人」や「男」が分断され、その一部が最貧困に落ち込むことで社会が深刻に動揺していることを論じた。

 アメリカでは、家賃や住宅ローンを支払えなくなった白人高齢者が、マイホームを捨ててSUVやキャンピングカーで路上に出て、ビーツの収穫やホリデイシーズンのアマゾンの倉庫などの季節労働で糊口をしのいでいる。


[参考記事]
●アメリカの知られざる下級国民「ワーキャンパー」の増加が意味するものとは?

 だったら、ブレグジットで混乱するイギリスはどうなっているのだろうか。そんな興味で手に取ったのがジェームズ・ブラッドワースの『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した――潜入・最低賃金労働の現場』(光文社)だ。原題は“HIRED(雇われて)”で、「アマゾン」や「ウーバー」という“パワーワード”を意図的に使った長いタイトルも話題になった。

 著者のブラッドワースは左翼系のウェブサイトの編集長をしたあと、インディペンデントやガーディアンなどに寄稿するジャーナリスト。本書は、2016年はじめから1年超にわたって、「アマゾン」「訪問介護」「コールセンター」「ウーバー」でブラッドワースが実際に最低賃金の仕事をした体験記だ。

 現在、イギリスでは約20人に1人が最低賃金で生活している。「底辺まで沈み込み、イギリスの豊かさの大半を作り出す巨大で、形のない、無個性な機械の歯車になる」ことで、彼ら/彼女たちの実態に迫りたいと考えたのだという。

 イングランド南西部の町に生まれ、母子家庭で育ったブラッドワースは、ほとんど単位も取れないまま高校を卒業したが、のちになんとか単位を取り直し、きょうだい4人のなかで一人だけ大学に進学した。「この本のための取材は、「質素な生活を送る実験」というよりも、やっとのことで逃げ出した世界に戻るという感覚のほうが強いものだった」と述べている。

 

日本の「非正規」にあたるのイギリスの「ゼロ時間契約」で働く労働者

 日本の「非正規」にあたるのが、イギリスでは「ゼロ時間契約」で働く労働者だ。その数は100万人に迫ろうとしており、年間20%超の勢いで増えている。成人向けの社会福祉の分野では、いまや仕事のおよそ4分の1がゼロ時間契約によるものだ。

 ゼロ時間契約とは、労働者の最低労働時間を設定せずに雇用することで、雇用者側は必要なときにだけ労働者を呼び出すことができる(そのため「オンコール契約」ともいう)。契約上は、労働者も雇用者の呼び出しに応じる必要がなく「対等」ということになっているが、仕事を提供されなければ収入が得られないのだから、実態としては雇用者に一方的に有利な契約だとずっと批判されてきた。

 ブラッドワースの仕事も、ウーバーを除けばすべて「ゼロ時間契約」で、訪問介護の会社では、契約書に「仕事を提供できない期間が発生した場合においても、貴方に仕事および賃金を与える義務を負わない」と明記されていた。

「柔軟な勤務時間で働くという合意」とは、「会社はいつでも好きなときにスタッフを仕事に派遣できるが、収入はいっさい保証しない」という意味で、多くの労働者はすこしでも生計の足しにしようと別の仕事を掛け持ちする。だがそのときは、従業員は会社に副業を知らせる義務があり、契約書には「弊社のための業務遂行に悪影響があると判断した場合、業務の提供を中止することができる」とされている。これでは、実質的に副業を認めないのと同じだ。

 あまりに偏向した契約を見直そうと思っても、「この雇用に適用される団体協約はない。サービス提供を円滑に行なうため、労働組合の活動をいっさい認めない」と契約書に書かれているから、団体交渉することもできない。

 日本の「非正規」労働者も劣悪な雇用環境を強いられているが、「ゼロ時間契約」で働くイギリスの労働者も同じか、もしくはそれ以下の条件で働くことを余儀なくされているのだ。

 もうひとつ驚いたのは、イギリスでは労働契約を結ぶ前に、警察の「前歴開示及び前歴者就業制限機構(DBS)」による審査が必要とされていることだ。

 以前は犯罪記録局(CRB)と呼ばれていたDBSの審査を要求できるのは、雇用主と認可機関だけに限られている。これは「麻薬の乱用者、小児性愛者、前科者などの不適切な人間が、脆弱な大人や子どもに近づくことを避けるため」の手続きで、それ自体には合理性があるものの、問題はDBSの審査が恒常的に滞っていることだ。2016年夏時点での平均的な審査期間は77日間で、審査が終わるまで2カ月以上かかることになる。なぜこんなことになるかというと、予算削減で警察の人手が足りなくなっているからだ。

 ブラッドワースはロンドンに住んでいたことがあるので、この問題はより深刻になった。ロンドン警視庁は60日以内の審査終了を公の目標として掲げていたものの、実際にその期間で終わるのは全体の45%ほどだった。

 面接から仕事を始めるまで2、3カ月待ってくれる雇用主などほとんどいない。けっきょく、短期間でDBSの審査が終わった幸運な応募者が仕事を手にし、警察の事務作業の迷宮に巻き込まれた不運な応募者が仕事から排除されることになる。