橘玲の世界投資見聞録
2019年9月26日 橘玲

人類はサバンナではなく水辺に移って進化したという「アクア説」が
きわめて高い説得力を持つ理由
【橘玲の世界投資見聞録】

人類は樹上から水辺に移って進化したという「アクア説(水生類人猿説)」

 じつはこれは、私の勝手な思い込みではない。人類がチンパンジーなどとの共通祖先から分かれたあと、樹上から棲息地域を水辺に移して独自の進化を遂げたという主張は「アクア説(水生類人猿説)」と呼ばれている。

 ここで「バカバカしい」と一笑にふすひともいるだろう。実際、「私たちの祖先が人魚だったとでもいうのか」とこの説は嘲笑されてきた。

 そこですこしは真剣になってもらうために、2つの例を挙げておこう。

 人類が二足歩行を始めた理由として、「樹上生活からサバンナに降りた時、直立した方が遠くまで見渡せて有利だったからだ」と説明される。だがもしこれが正しいとしたら、サバンナに棲息する多くの動物たちのうち、二足歩行をするのが人類だけなのはなぜだろうか? そんなに有利なら、サバンナという環境は同じなのだから、ほかにも二足歩行に移行する動物が出てくるはずではないか?

 ミーアキャットなど直立する動物たちが話題になるが、移動するときは四足歩行だ。人類以外の二足歩行の大型動物はカンガルーくらいしかいない。

 それに対してアクア説なら、二足歩行をずっとシンプルに説明できる。初期人類が水辺で生活することを選んだのなら、水中で直立したほうが遠くまで移動できてずっと便利なのだ。そのうえ、水の浮力が直立する上半身を支えてくれただろう。

 ここで、「同じように水辺で生活するカバは四足歩行ではないか」との反論があるかもしれない。だがウシなどと同じ偶蹄目であるカバは、そもそも直立できるような骨格になっていない。それに対して人類と共通祖先をもつチンパンジーなどは直立や短距離の二足歩行がもともと可能だったから、水中に入ることが多くなって直立二足歩行に移行するのはごく自然なのだ。

 もうひとつは、人類では鼻の穴が下を向いていることだ。それに対して四足歩行の哺乳類はもちろん、ゴリラやチンパンジーも鼻の穴は正面を向いている。その方が呼吸するにも、臭いをかぐにもずっと有利だからだ。

 この謎について、これまでサバンナ説は有力な仮説を提示できていない。だがアクア説なら、ものすごく単純な説明が可能だ。鼻の穴が正面を向いていると、水中に潜ったときに水を肺に取り込んでしまう。鼻の穴が下向きに進化すれば、水が入りにくくなって長い時間潜っていられるのだ。

 他の哺乳類と比べて人類の特徴は嗅覚が衰えたことだが、水中では臭いはあまり役に立たないのだから、脳の嗅覚の部位が退化して、その代わり視覚など他の部位が発達したと考えることができる。

 どうだろう? すこしは納得してもらえたのではないだろうか。

 

「人類はなぜ体毛を消失したのか」がアクア説なら解ける

「アクア説」はもともと1942年にドイツの人類学者マックス・ヴェシュテンヘーファーによって唱えられ、その後、海洋生物学者のアリスター・ハーディーが1960年に別の観点から主張した(ヴェシュテンヘーファーの説は忘れさられていた)。それを在野の女性人類学者、故エレイン・モーガンが再発見し、精力的な執筆活動で「啓蒙」に努めた。その総集編ともいえるのが『人類の起源論争―アクア説はなぜ異端なのか?』(どうぶつ社)だ。

 海洋生物学者のハーディーは、「陸生の大型哺乳類のなかで、皮膚の下に脂肪を蓄えているのは人類だけだ」との記述を読んで、アシカやクジラ、カバなど水生哺乳類はみな皮下脂肪をもっていることに気づいた。

 皮下脂肪を蓄えれば冷たい水のなかでも生活できるし、水に浮きやすくなって動きもスムーズになる。それに対してサバンナの動物は、皮下脂肪を蓄えたりせずに毛皮で体温を調節している。だとしたら人類も、過去に水棲生活をしていたのではないか。

 このアイデア(コロンブスの卵)を知ったモーガンは、アクア説ならさまざまな謎が一気に解けることに驚いた。

 動物学者たちを悩ませていたのは、「人類はなぜ体毛を消失したのか」だった。従来のサバンナ説ではこれは、「酷暑のなかで長時間移動するには、体毛をなくし発汗によって温度調節するほうが有利だから」と説明された。だがサバンナの動物のなかで、そんな進化をしたのは人類しかいない。昼は太陽が照りつけ、夜はきびしい寒さにさらされる乾燥したサバンナでは、定説とは逆に厚い毛皮が必須なのだ。

 毛皮は体温の喪失を防ぐだけでなく、太陽熱を半分遮り、残りの熱を皮膚から離れた場所に閉じ込めて対流や放射によって放散させる。さらには、閉じ込めた熱が皮膚まで伝わらないようにする断熱材の役目も果たしている。だからこそ、サバンナよりきびしい環境の砂漠で暮らすラクダも立派な毛皮を身にまとっているのだ。

 それにもかかわらず人類の祖先はどこかで体毛を失い、大量の水を飲んで大量の汗をかかなければ体温調整できなくなった。もう説明する必要もないだろうが、この謎もアクア説ならかんたんに解ける。水棲の哺乳類の多くが体毛を失ったように、そのほうが水中で動きやすいのだ。

 このようにアクア説はきわめて高い説得力をもっているが、それなのになぜこれまで主流派の学者たちから馬鹿にされ、相手にされてこなかったのか? これについてはそれなりにもっともらしい理由があるだろうが、私は、アクア説を主唱したエレイン・モーガンが在野の女性研究者だったからではないかと考えている。

 象牙の塔のプライドの高い男の学者にとって、「どこの馬の骨とも知れない無学の女」が自分たちより正しいなどということは、あってはならないのだ。モーガンがアカデミズムの「男性中心主義」をはげしく攻撃したこともあるだろう。こうしてアクア説は徹底的に無視され、学者たちは無理のあるサバンナ説に固執することになった。

 最近になって、化石研究などから「人類の最古の祖先はサバンナではなく森林に住んでいた」との説が唱えられるようになった。ようやく通説に異を唱えることができるようになったのは、サバンナ説の否定に生涯をかけたエレイン・モーガンが2013年に亡くなったからではないだろうか。

グレート・リフト・バレーのタンガニー湖。人類はここで生まれた?   (Photo:@Alt Invest Com)