橘玲の世界投資見聞録
2019年9月26日 橘玲

人類はサバンナではなく水辺に移って進化したという「アクア説」が
きわめて高い説得力を持つ理由
【橘玲の世界投資見聞録】

出産直後の赤ちゃんが「泳げる」のはなぜか?

 進化論の主流派のあいだではアクア説はいまでもタブーだが、それ以外の分野にはこの「異端」を支持する専門家がいる。

 シャロン・モアレムは神経遺伝学、進化医学、人間生理学の博士号をもち、医学研究者でありながら臨床も行ない、医療ベンチャーを起業して画期的な新薬を開発し、さらには医療ノンフィクションでもベストセラーを連発する現代の才人だ。その著作は日本でも翻訳されているが、『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』(NHK出版)でアクア説を取り上げている。

 チンパンジーらとの共通祖先から分かれたあと、人類は急速に知能を発達させ、それにともなって脳の容量も大きくなっていった。大きな頭蓋骨をもつ子どもを生むことは困難なので、じゅうぶんに成長する前に出産するほかなくなり、人類は異常なほど早産になった(哺乳類の基準からすれば、ヒトの赤ん坊は“超未熟児”の状態で生まれてくる)。出産時のトラブルで母親が死亡するなどということは他の哺乳類ではほとんどあり得ないが、人類にとって出産はきわめて危険だった。

 それにもかかわらず、初期人類は多くの子どもを産みつづけてきた(だからこそ私たちがいま生きている)。だとしたら、困難な出産を助けるなんらかの方法があったはずだ。モアレムは、それが「水中出産」だという。

 1600件の水中出産を行なったイタリアの病院では、温水で水中出産した妊婦は分娩が加速され、会陰切開の必要が減り、ほとんどが鎮痛剤なしですませた(通常の出産では妊婦の66%が硬膜外麻酔を求めるが、水中出産は5%だけだった)。

 子宮内にいる胎児は息を止めており(代わりに羊水を吸い込んでいる)、顔に空気があたったときにはじめて息を吸う。このとき分娩時の残余物などがいっしょに肺のなかに入ってしまうと感染症を引き起こすが、水中出産なら赤ん坊は呼吸していないので、母親は落ち着いて残余物を顔から拭うことができる。

 しかしより決定的なのは、出産直後の赤ちゃんが「泳げる」ことだ。すでに1930年代に、乳児は水中で反射的に息を止めるだけでなく、水をかくように腕をリズミカルに動かすことが知られていた(こうした動作は生後4カ月ごろまでつづき、その後はぎこちなくなる)。「熱く乾燥したアフリカのサバンナで進化した動物の赤ちゃんが、なぜ生まれてすぐに泳げるのか」とモアレムは問うている。

 

巨大な脳を維持するために人類は水辺からサバンナへ向かったのか

 人類がチンパンジーなどの共通祖先から分岐したのが700万年ほど前で、エチオピアなどで400万年~300万年前の人類の化石が発見されている。だとしたらこの間の300~400万年を私たちの祖先はどのように進化してきたのだろうか。

  エレイン・モーガンはこの「ミッシング・リング」のあいだ、人類の祖先は海辺で暮らしていたと考えたが、樹上生活から淡水湖の水辺に移行したとしても同じような「進化」が説明できるだろう。

 ヒトはごくふつうに呼吸をコントロールできるが、近縁種であるチンパンジーは意識的に息を止めたり吐いたりすることがうまくできず、これが「しゃべれない」大きな理由になっている。だが水棲生物は、水中で呼吸をコントロールするよう進化してきた。私たちがごくふつうに会話できるのは、祖先たちが水に潜ったことの恩恵かもしれない。

 水辺の進化で高い知能とコミュニケーション能力を手に入れた人類にとって、栄養価の高い肉を手に入れることはきわめて重要だった。巨大な脳を維持するには、大きなエネルギーが必要になるのだ。こうして水辺を離れ、大型動物のいるサバンナに向かったと考えれば、人類だけが特異な特徴をもっていることが説明できるだろう。

 アディスアベバ国立博物館には、セラム(ルーシーズ・ベイビー)をフランスの研究者が復元した像が置かれている。それが下の写真だが、すぐにわかるように、これはチンパンジーを直立させ、体毛を薄くしたものにすぎない。なぜ化石人類が「サルとヒト(サピエンス)の中間」になるかというと、初期人類が現生人類に近づくようにサバンナで段階的に進化したと考えているからだ。

セラムの骨格(アディスアベバ国立博物館)  (Photo:@Alt Invest Com)
フランスの研究者によって「復元」されたセラム  (Photo:@Alt Invest Com)

 だがこの大前提は、「なぜそのように進化しなければならなかったのか?」という単純な疑問にうまく答えることができなくなっている。

 約300万年前に生きてきたルーシーやセラムは直立二足歩行をしていたのだから、現生人類と同様に体毛のほとんどを消失していたかもしれない。なぜならどちらも「水棲生活」のあいだに獲得された特徴なのだから。

 もちろんこれは、いまはたんなる推測にすぎない。だがこのように考えると、エチオピアの博物館にいるルーシーやセラムをもっと身近に感じられるのではないだろうか。
 

 

 

橘 玲(たちばな あきら)

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 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『上級国民/下級国民』(小学館新書)。

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