橘玲の世界投資見聞録
2012年8月30日 橘玲

[橘玲の世界投資見聞録]
”ケルトの虎”アイルランドが
国家的危機に頼ったのは「愛国心」だった

ヨーロッパの最貧国から「ケルトの虎」へ

 アイルランドは1840年代の大飢饉(ジャガイモ飢饉)で800万人だった人口が440万人に半減(そのうち100万人が餓死)するという悲劇に見舞われ、悲願の独立を果たした後もずっとポルトガルと並ぶヨーロッパの最貧国だった。だがそんな貧しい国が、1995年から年率10%を超える爆発的な経済成長を始め、「ケルトの虎」と呼ばれるようになる。

1592年創設のトリニティ・カレッジ。「アイルランド最高の宝」といわれる『ケルズの書』(聖書の装飾写本)で知られる (Photo:©Alt Invest Com)

 高度成長の理由は、①社会の安定で生産年齢人口が大きく増えた。②EU(およびユーロ)加盟でヨーロッパ市場とつながった。③法人税率を43%から12.5%へと大きく引き下げる「タックスヘイヴン政策」でマイクロソフト、インテル、デルなど大手IT企業の誘致に成功した。④第一公用語はアイルランド語だが英語がふつうに通じる。⑤教育分野への積極的な投資で労働者の教育水準が高まった、などが挙げられている。いずれにせよ、アイルランドはいまやルクセンブルクやオランダ、北欧諸国などと並んでヨーロッパでもっともゆたかな国なのだ。

1204年にジョン王によって立てられたダブリン城 (Photo:©Alt Invest Com)

 アイルランド経済は2004年ごろから、アメリカの好景気(サブプライムバブル)の影響でさらに加熱していく。その理由のひとつは、アメリカで成功したアイルランド系の実業家たち(彼らももちろん愛国者だ)が競うように母国に投資したことだ。もちろん銀行も、不動産を担保に莫大な融資を行なった。

 アイルランド国民は愛国者だから、手元のお金が増えると海外資産などには目もくれず、値上がりの続く国内不動産にすべてを投じた。投資理論でいう極端な自国バイアスが、絵に描いたような不動産バブルを誕生させたのだ。

 2007年の世界金融危機でバブルがはじけると、アイルランドの大手3行(バンク・オブ・アイルランド、アライド・アイリッシュ銀行〈AIB〉、アングロ・アイリッシュ銀行)は巨額の不良債権を抱えて経営が行き詰まり、実質国有化される。とりわけアングロ・アイリッシュ銀行は、720億ユーロの不動産担保融資のうち半分ちかい340億ユーロが不良債権化する惨状だった。エコノミストは、アイルランドの金融機関が抱える不良債権の総額はGDPとほぼ同じ1000億ユーロを超えると試算した。

バンク・オブ・アイルランド。元はアイルランド自治議会の議事堂 (Photo:©Alt Invest Com)

 2006年には、アイルランドの全労働人口の5分の1以上が住宅建設に従事し、年間新築件数は、15倍ちかい人口を持つイギリスの半分に達していた。ダブリンの住宅価格は1994年から12年間で6倍になり、不動産の投資利回り(年間賃料/購入価格)は銀行預金の金利よりはるかに低い1%未満まで下がった。この住宅価格を正当化する経済成長率を25年続けると、アイルランドはアメリカよりも3倍ゆたかな国になる(マイケル・ルイス『ブーメラン』)。バブル期の日本で、皇居の地価がカリフォルニア州を上回ったのと同じような話だ。

 こうして、アイルランドじゅうに使い道のない不動産が大量に生まれた(私がマン島で見た不動産はそのごく一部だった[前回記事「ロンドン五輪の陰でオフショアのメッカ・マン島の想像以上の寂れ方に思う」])。

 ダブリン郊外の広大なオフィスパークは整地すら行なわれず、完成した超高層ビルは空っぽで、アングロ・アイリッシュ銀行が入る予定のビルは骨組みしかなく、7500万ユーロで建設されたカンファレンスセンターに人影はなく、4億1200万ユーロを投じた市のごみ集積場の価値は処理費込みでマイナス3000万ユーロと査定された(マイケル・ルイス、前掲書)。財政赤字はGDPの3割にも達し、アイルランドの債務不履行(デフォルト)確率はイラクよりも高くなってしまったのだ。

 この「国家的危機」に対して、アイルランド政府が頼ったのはやはり愛国心だ。2010年11月、総額150億ユーロの財政改革案(そのうち100億ユーロが歳出削減、50億ユーロが増税)を発表したとき、カウエン首相は次のように訴えた。「危機の規模はあまりにも大きく、国民の誰一人として国家の回復に向けた貢献から逃げることは許されない」

 アイルランド国民は、経済成長に必要な法人税率を据え置く一方で、個人所得税を引き上げ、労働者の賃金を引き下げ、公務員の給与を大幅にカットし、社会福祉予算を削るという厳しい「改革」を受け入れたのだ。