橘玲の世界投資見聞録
2012年8月30日 橘玲

[橘玲の世界投資見聞録]
”ケルトの虎”アイルランドが
国家的危機に頼ったのは「愛国心」だった

アイルランド人の愛国心

 私がダブリンに着いたのは、ユーロ2012(欧州サッカー選手権)でアイルランドがスペインに0対4の大敗を喫し、予選突破の夢が消えた翌日だった。みんな意気消沈しているかと思ったが、予想に反して週末の夜はものすごい活気だった。とりわけ、スラム化していたリフィ川南岸を再開発したテンプル・バー地区には若者たちが集まり、パブやバーの前にはグラス片手の客があふれ出している。その夜はちょうど、イングランドとスウェーデンの試合が行なわれていたが、誰一人興味がないようだった。

金曜夜のテンプルバー地区。街のシンボル「The Temple Bar」前の賑わい (Photo:©Alt Invest Com)  

 アイルランド人の前では口にしにくいが、ダブリンの街はロンドンにものすごくよく似ている。私のような通りすがりの観光客には、イギリスのパブとアイリッシュパブの違いも、イギリス料理とアイルランド料理の違いもほとんどわからない。週末になると街にくりだし、立ち飲みしながら談笑するのもロンドンっ子とまったく同じだ。

 かつて関川夏央は、異文化体験記の嚆矢となった『ソウルの練習問題』で、はじめてソウルの町を歩いたときの「ハングル酔い」について書いた。これはソウルの町並みが東京と瓜二つで、それにもかかわらず看板だけがハングルになっていることから起こる感覚の酩酊のことだ。ところがダブリンでは、看板はすべて英語で、道路標識や公共の案内板だけがかろうじてゲール語(アイルランド語)との併記になっている。「ゲール語酔い」すら起こらず、ここがダブリンなのかロンドンなのかわからなくなってしまうのだ。

すべての表示でアイルランド語と英語が併記されているが、アイルランド語を話すひとは少ない (Photo:©Alt Invest Com)

 いまやほとんどのアイルランド人は、アイルランド語を読み書きすることができない。義務教育ではアイルランド語は必修だが、日常生活で使うことはほとんどなく、一般企業はもとよりアイルランド議会も行政機関も裁判所もすべて英語で運営されている。イングランドによる「植民地化」によって言葉すら奪われ、文化や経済などあらゆる領域で“侵略者”に同化しつつある現実が、アイルランド人の愛国心をより強固なものにしているのかもしれない。

 ダブリン市内には日本料理店が何件かあり、どこも繁盛していると聞いたので、“YAMAMORI”という店に入ってみた。ビールはギネスやキルケニーではなくキリン、アサヒ、サッポロ。SUSHIやSASHIMIだけではなく、酢の物や煮物まである本格派だ(海外の日本料理店にしては味もかなりいい)。

日本料理店YAMAMORI外観 (Photo:©Alt Invest Com)

 広い店内は8割ほど埋まり、客はビジネスマンや家族連れ、デートや友だち同士など、ごくふつうのダブリンのひとたちばかりだ。2人でビールを飲んで、寿司とつまみを何品か頼んで、日本円で1人3000円前後だから安い店ではないだろうが、みんな週末のちょっとした“イベント”を楽しんでいるようだった。南欧ではレストランにいるのは観光客ばかりだから、同じ「財政破綻国」でもその違いは大きい。

日本料理店YAMAMORIの店内。壁に映写されているのは黒澤明『蜘蛛の巣城』 (Photo:©Alt Invest Com)

 痛みをともなう財政改革の後、税収は目標を上回り、政府支出は予定額を下回っている。経常収支は黒字に戻り、2010年の輸出は前年比9.4%増えた。2012年度以降の成長率は、ドイツを抜いてヨーロッパでもっとも高くなるという試算もある。アイルランド国民の愛国心は報われつつあるのだ。

ダブリン郊外に建つマラハイド城 (Photo:©Alt Invest Com)