橘玲の日々刻々
2020年8月24日 橘玲

ALS患者の嘱託殺人が起きても
日本で安楽死の議論が進まないのは「日本人の民度が低いから」
【橘玲の日々刻々】

 難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性が、ネットで知り合った医師2人から鎮静薬を投与され死亡した事件が波紋を広げています。主犯とされる医師はツイッターに「安楽死外来(仮)やりたいなあ」などと投稿する一方で、妻によると頻繁に「死にたい」と訴え自殺未遂もあったとされ、犯行の動機については不明な点が多いままです。

 その一方ではっきりしているのは、ALSを患う女性が自らの意思で安楽死を望んだことです。彼女は(パソコンのスクリーン上のキーボードを視線の動きで感知する)視線入力でブログやSNSに自らの思いを投稿していましたが、そこには「惨めだ。こんな姿で生きたくないよ」「すごく辛い。早く楽になりたい」などの言葉が並んでいます。

 報道によれば、女性はスイスの自殺ほう助団体の利用を考えたものの、付添人が刑事罰を科せられる可能性を知って断念し、SNSでやりとりするようになった医師に依頼し、報酬として130万円を支払ったとされます。

 それにもかかわらず一部の論者は、「やまゆり園事件」を引き合いに出して、これを「優生学」と批判しています。知的障がい者施設で大量殺人を実行した男は、たしかに「重度・重複障がい者を育てることは莫大なお金・時間を失うことにつながる」などと主張し「生命の選別」を正当化しました。しかし今回の事件では、女性は報酬まで支払っているのですから同列に扱えないのは明らかです。

 ヒトラーは「戦争は不治の病人を抹殺する絶好の機会である」と述べ、ナチスは知的・身体的・精神的な障がいのある国民を「安楽死施設」で組織的に殺害しました。1979年に元衆議院議員を中心に発足した日本安楽死協会が「末期医療の特別措置法案」の国会提出を目指したとき、「人権派」や身体障がい者団体は「ナチスの優生思想と同じ」と猛烈と批判しました。その結果、団体は法案提出を断念し「日本尊厳死協会」と改名して、「安らかな死」を求めるリビング・ウィルの普及を目指すようになります。

 これ以降、日本では安楽死を議論することはタブーになり、それは40年以上経ったいまも変わりません。死の自己決定権について語ろうとすれば、即座に「優生学」のレッテルを貼られ公的空間から排斥されてしまうのです。

 オランダやベルギーなどでは安楽死が条件付きで合法化されており、(ALSの女性が望んだように)栄養補給を止めて死に至らしめることを実質的に認めている国はもっと多いでしょう。ではなぜ、日本では議論すら許されないのか。

 その理由はきわめて明快で、「日本人の民度が低いから」です。そのときに使われる定番の理屈は、「欧米と比べて同調圧力の強い日本で安楽死を認めれば、社会や家族の都合で生死が決められるようになる」です。これは、「日本人は愚かだから欧米と同じことをするのは無理だ」というのと同じです。

 この論理がグロテスクなのは、愚かな日本人を「説教」する自分が特権的に優れていることを当然の前提にしているからです。よりよく死ぬことを求めたALSの女性は、リベラルの“知的優生学”と“自虐史観”の犠牲者でもあるのです。

『週刊プレイボーイ』2020年8月17日発売号に掲載

橘 玲(たちばな あきら)

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 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)。

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