3年前に家族と小田原に移住し、東京・品川への遠距離通勤を始めた、財政学者・井手英策さん(慶應義塾大学経済学部教授)。地域の人たちとの出会いと交流は何とも魅力的で、どんどん小田原暮らしにのめり込んでいったという。今では町おこしにも参加するほどすっかり地元になじんだ井手さんに、移住を決めた理由やそこでの暮らしぶり、東京一極集中を解消するための策などについて聞いた。

後悔しないために、家族で地に足をつけて暮らす場所を探した

――都内からの「移住」は大きな決断だったと思いますが、何がきっかけとなったのでしょうか。

井手英策(いで えいさく) 慶應義塾大学経済学部教授 1972年、福岡県久留米市生まれ。2000年に東京大学大学院経済学研究科博士課程を単位取得退学し、日本銀行金融研究所に勤務。その後、東北学院大学、横浜国立大学を経て、現職。専門は財政社会学、財政金融史。著書に『経済の時代の終焉』(岩波書店、第15回大佛次郎論壇賞受賞)、『分断社会を終わらせる』(共著、筑摩書房)など。

 1つは、あの東日本大震災です。連れ合いの出身地、福島・郡山でも、義理の母や親戚をはじめ、多くの知人が被災しました。だから、原発を必要とするひとつの理由・・・一極集中した東京に住んで、毎日電気を使っていることに何となく加害者意識がありました。「このまま東京に住んでていいのかな」という疑問を連れ合いも僕も持っていたんです。

 そんな折、震災の翌月の4月ですが、僕は過労で倒れて、脳挫傷で命を落としそうになりました。よく死の直前に「思い出が走馬灯のように駆け巡る」って言うじゃないですか。でも、僕の場合、何も浮かんでこなかったんですよ。で、「俺の人生、何だったのか」と。

 だから、家族で地に足をつけて暮らす場所をちゃんとつくって、いろいろな思い出や記憶を残していかないと後悔する、そうベッドの上で強く思ったんです。

 その後、家族との時間、ものを考える時間を大事にしたくて、フルブライトで1年間、米国カルフォルニア州サンタバーバラに住みました。豊かな自然、温かい人々に囲まれ、本当に穏やかな毎日でした。だから、体調の問題もあるし、慌ただしい東京に戻るのがとても不安でした。

 帰国したのは2014年2月。当時住んでいた駅の近く、東京・吉祥寺まで成田空港から直通バスで戻ってきました。でも、疲れ果てていたので、スーパーに寄って惣菜を買っていくことに。そこで改めて驚いたのは、店内の人の多さです。スーツケースが邪魔になって買い物はおろか、身動きもできない状態。しかも、みんながとても迷惑そうな顔をする。その瞬間、「あっ、もう東京で暮らすのは無理だな……」と、完全に心が折れました。連れ合いも同じ思いだったようです。

豊かな自然の中で子どもをのびのびと育てたい

――小田原に決めたのはどういう理由から?

 僕は生まれが福岡・久留米、連れ合いが郡山なんですが、それぞれ筑後川、逢瀬川という素晴らしい川を眺めながら育ったので、川や海があるところに憧れがありました。それから、僕が通勤できる範囲内でなるべく東京から遠ざかりたかった。これらにぴったりなのが小田原だったわけです。

 帰国してから2カ月足らずの2014年4月、持ち家を手放して引っ越しましたが、最初はとりあえず駅前の賃貸マンションを借りることに。その後、小田原城と海の間にある高台に土地を買って家を建てました。小田原駅から徒歩12分です。

 田町まで通っていますが、東海道線で約1時間20分。長いと思うかもしれませんが、ラッシュ時でも100%座れますから苦になりません。太平洋から上る朝日を眺めたり、のんびり本を読みながらゆったりと通勤できるって、すごく気持ちいいですよ。僕はお酒が大好きなんで、酔っぱらった時はもっぱら新幹線。品川から25分程度で着いちゃいます。「酔いの覚めない距離」です(笑)

 移住を決めたのは、自分たち夫婦はもちろん、子どもにも豊かな自然の中でのびのびと育ってほしかったからです。ここら辺は、魚や野菜が豊富で、旬の新鮮なものが食べられます。緑に囲まれていますから、うちの庭にはサルやハクビシンが来ますし、ちょっと山に入るとイノシシやウサギ、リスも見かけます。越して来て、季節の移ろいをこれまでより敏感に感じるようになりました。

 知らない場所に移り住むのは、たしかに思い切った決断が必要でしょう。でも、ちょっと勇気を出せば、ものすごく豊かな、新しい生活が待っているかもしれない。このことに気づいてほしいですね。