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楽しんだヤツしか人を楽しませられない

そぎ落とした先にある究極のプロダクト

髙島 郁夫氏

「久しぶりのマニュアル車の運転」と言いながらも、極めてなめらかなシフトさばきで都内の道を駆け抜けた。トルクが太く乗りやすいとの評価も。

 「車や洋服は持っている人のセンスを表すだけに、選ぶのが難しい」と語る髙島氏。仕事柄、イタリアにも何度となく足を運んできたが、アバルトをひと目見て、「ミラノの古い石畳の道をビシッと決めた伊達男がこの車でさっそうと駆け抜けていく。ときどき、ウインドウ越しに女の子に声を掛けたりして」。そんなシーンが頭に浮かんだという。

 「イタリアらしくシンプルで抜けのいいデザインは、日本の都会の風景にもよく合うと思う。東京に住んでいると、車というと郊外に出かけるようなイメージがあるけど、アバルトは逆に街に出かけるための道具だと感じた。サイズもコンパクトだし、街中を走るのがとても似合う」

 一方で、運転してみるとその印象は大きく変わった。今回、髙島氏が試乗したのは、「アバルト 595 コンペティツィオーネ」の5速マニュアル車。1120㌔㌘の軽い車体に180馬力のハイパワーエンジンを積んでいる。「パワーだけじゃなくて、トルクがあって出足が速い。こいつは都会だけじゃなく、箱根のワインディングを攻めてみたくなった」。いまでもトライアスロンに参加しているだけに、アスリート魂に火を付けられたようだ。

 「トライアスロンのバイク(自転車)では、ギアチェンジの技術もタイムを縮めるポイントになる。久々にマニュアル車を運転したけど、バイクに乗っている感覚に近い。小気味良いトルクフルなエンジンに感動した」。車が本来持つ運転する楽しさを十分に堪能した様子だった。

 さて、髙島氏は最近個人的に進めていることがある。それは、「自分にとってのワン&オンリーといえるプロダクトを決めていく」作業だ。

 週末になると料理の腕を振るい、家族や友人をもてなす。そこで使う包丁は何度も自分で研ぎ直し、鉄製のシンプルなフライパンにはほどよく油が馴染んでいる。

 「それほど高価なものではないけれど、使い込むほどにその良さが感じられて、これ一つあればいいと思える、自分にとって究極のプロダクト。それを髙島氏は「ラスト・プロダクト」と表現する。

 「いろいろなものをそぎ落として、気に入ったものだけを自分の周りに置いておきたい。僕もそうだけど、そんなライフスタイルを選ぶ人たちがこれから増えていくと思う」

 包丁やフライパンからはじまった髙島氏のラスト・プロダクト探しの旅だが、究極の車選びは相当困難を極めそうだ。

 今回のアバルトは、もしかするとその候補の1台に入ったかもしれない。「見た目から感じる強烈なラテンのオーラ。そして乗ってみるとわかる、素材の良さを生かしきる職人気質。そういう奥の深さに惹かれますね」。

アバルト創業、そして最大の危機 企業家 カルロ・アバルト物語 2 Text:大矢アキオ 
 Akio Lorenzo OYA  イタリア文化コメンテーター

〈前回のあらすじ〉1908年ウィーン生まれの2輪ライダー、カール・アバルトは大事故を経験しながらも、スピードという「好き」を仕事にする道を果敢に模索した。第二次大戦後にはイタリアに居を移し、名前もカルロと改称した。

 カルロは当初自転車店を営んでいたが、1946年にポルシェのイタリア代理権を入手する。当時のポルシェはスポーツカー製造前夜。オーストリアのいち設計事務所だった。カルロは生涯3回結婚しているが、最初の妻マリアはポルシェ一族に仕える秘書だった。権利取得はその縁だったのだ。

 最初の仕事はポルシェ設計のF1マシン開発のため、トリノの新興メーカー「チシタリア」への出向。だがチシタリアはまもなく経営が暗礁に乗り上げた。

カルロ・アバルト

30kgの減量に成功したカルロ。当時のアバルト車をズラリと並べ、ご満悦の表情を浮かべる。

 新天地で最初から挫折を味わったカルロは、オーストリアに戻りポルシェで働く選択もあったはずだ。だが彼は敢えて困難な道に挑む。その人望とバイタリティで出資者を獲得。旧チシタリアのレース部門を引き取り、同志10人と「ABARTH & C.」を創設したのだ。1949年、カルロ41歳。社章は自身の星座であるサソリだ。主にフィアットを基にカルロがチューンした車たちは、レースでたちまち頭角を現した。名門ブランドを打ち負かす姿は、まさにギリシア神話のオリオンを倒す毒サソリであった。「社員番号7番だった」というチシタリア時代からのメカニック、コルネリオ・マフィオードが筆者に語ったところによると、カルロの口癖は「試してみろ!」。常に挑戦ありきの実践主義者だった。

 カルロはそのレース活動を支えるためにビジネスでも、強みを遺憾なく発揮する。答えは、一般車のポテンシャルを最大限に引き出すチューニング用パーツだった。それはヒットし、とくにマフラーは年産3万本の稼ぎ頭となった。

 「ABARTH & C.」は最盛期に従業員数375人を数えるまで成長したが、それでもカルロは社長の椅子に安住せず自身で挑み続けた。57歳のときには速度記録挑戦の車の狭い運転席に収まるため30kgも減量。そのダイエットフードはリンゴだった。かつて彼が越えたオーストリア-イタリア国境付近には、見渡す限りリンゴ畑が広がる。それに着目したのは容易に想像できる。そのシェイプアップした体で、カルロは見事速度記録を達成した。

 だが1960年代後半に入ると奇跡と呼ばれた戦後イタリア経済成長は陰りを見せ、1969年には戦後史に残る労働争議「熱い秋」が起こる。「ABARTH & C.」の社風は家族的で無関係に思えた。だがフィアットからのエンジン供給は滞り、週末のレース用すら事欠く事態に。モータースポーツを企業イメージに成長を続けてきた「ABARTH & C.」に最大の危機が訪れた。
〈つづく〉

高島 郁夫 高島 郁夫 Fumio Takashima

バルス社長。関西大学経済学部卒業。1990年にバルスを設立、現在100店舗以上を展開する基幹ブランド「Francfranc(フランフラン)」は、来年25周年を迎える。著書に『遊ばない社員はいらない』(ダイヤモンド社)など。

提供:FCAジャパン株式会社
ABARTHに関するお問い合わせ
0120-130-595
http://ABARTH.jp

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