かつての好循環が破綻したことにより、家庭の経済的安定と一定水準以上の教育、それを長期的に支える収入、さらにはそれなりの企業への就職といったことが普通ではなくなり、ある一定層に偏り、その結果、新たな格差が生じている、と。
 はい。ご承知の通り、1990年代半ば以降、戦後日本型循環モデルだけでなく、日本の社会システムの大部分を成り立たせていた前提条件が変わってしまいました。その結果、仕事と家庭と教育の3つが安定的に循環するモデルを形成しうるのは、多くの場合、一定の所得水準をクリアしている人たちだけになっています。困ったことに、この持てる者と持たざる者との間に生まれた格差は、将来的には狭まっていくというより、むしろ拡大していく類のものです。
  経済成長が止まり始めると、膨らまないパイをどのように分け合うかが問題になってきます。そうすると、こうした持てる者たちは、自分たちに有利に働くようにゲームのルールや価値観を変えていきます。こうしてますます格差が広がっていく。
  一方で、こうした偏りによって、いわゆる貧困や過重労働などの問題が派生し、恒常化しています。加えて、こうした厳しい状況に放置され続けた結果、あるいは近い将来そうなるかもしれないという恐れから、絶望感や虚無感にさいなまれる人たちが増えています。私は、インタビューやフィールドワークを通じて、こういう人たちとたくさん知り合いましたが、リアルな実態を知らない人たちが、いまの日本が抱える問題を語ってほしくありません。

  二極化が生じ、そこに横たわる格差には、ひとたび勢いがつくとますます加速していくポジティブフィードバックが働いています。そこには、グローバル化や新自由主義(ネオリベラリズム)などが起因しているのでしょうか。
  折からのグローバル競争の激化とこれを後押しする新自由主義、また日本では、少子化と高齢化による人口ピラミッドの歪み、それに伴う終身雇用や年功序列の弊害など、さまざまな要因が複雑に絡み合っているのは間違いありません。
  あまり広く認識されていないものの、放置しておけば、このままずるずると続いていく可能性のある問題があります。それは、いまなお激しさを増している学歴競争です。
 イギリスの社会学者フィリップ・ブラウンは、イギリスでは、教育がもたらす機会の格差に加えて、新たに「機会の罠」が生じていると主張しています。つまり、高等教育の機会が拡大した結果、人気企業に入社する、高賃金の仕事につくには、これまで以上の高等教育が要求されるようになり、以前ならば十分だった学歴でも、自分が希望するところに入れる保証はなくなり、それゆえ新たな学歴競争を余儀なくされているというのです。いまの日本はそこまでではないですが、時間の問題です。
 機会の罠は、つまるところ、教育機会と就業機会のミスマッチへと行き着きます。すると、どこからか「労働市場も市場である以上、需要と供給の論理から逃れられない」と訳知り顔の声が聞こえてきます。そう片付けるのは簡単です。ですが、学歴競争が加熱すれば、言うまでもなく序列化がいっそう進行し、二極化による格差はいっこうに解消されることなく、社会における不満の総量は増加していく一方です。はたして、これでいいのでしょうか。いいはずがありません。
 半世紀ほど前、ソニーの盛田昭夫氏は『学歴無用論』(文藝春秋)という本の中で、こんなことを主張しています。
 「問題になるのが、学歴偏重、学歴主義とでも呼ぶべき習慣である。この習慣ほど、会社組織が大きくなるにつれて隠然たる力を持ち、仕事本位の実力評価をさまたげてきたものはないのである。(中略)私の願いは、何とかして日本の土壌にも、人を正しく評価する習慣を植えつけたい、ということである」
 この主旨には私もほぼ同感ですが、その後、「大学名不問、実力重視」といった採用方針を掲げる企業が出てきてからも、大半が有名無実で、建前に終わっています。
 現在、学歴主義はより苛烈さを増しています。たとえば、正社員として入社できるかどうか、どのような企業に就職できるかどうかについて、これまで以上に学歴の差が鮮明になっているのです。この問題を緩和・解消に導いていくには、企業への働きかけも必要でしょうが、実効性には乏しいでしょう。

 学歴競争を危惧される一方、実力主義にも疑問を呈されています。多くの組織では、いまだ情実人事や縁故主義が幅を利かせている中、実力主義はむしろ歓迎すべきことではないのでしょうか。
 実力主義、すなわち「メリトクラシー」とは、ご存じの通り、生まれや身分とは関係なく、個人の能力や実績によって社会的地位が決定するという考え方です。生まれながらの貴族がその地位や財産を子どもたちに世襲させることで、生得的に社会的地位が決定されるアリストクラシー(貴族主義)に対して生まれた概念です。
 メリトクラシーが成り立つには、たとえ形式的であろうと、社会の構成員が自分の能力を開発できる機会が均等に用意されており、かつその能力を証明する手段も均等に与えられていなければなりません。その建前を満たすために、近代社会では学校教育が整備され、普及しました。
 メリトクラシーで評価される能力とは、いわゆる「認知能力」と呼ばれるもので、その典型は試験によって客観的に測定できる学力のことです。指揮命令系統、ルールやマニュアルが整備されている官僚的な組織では、この種の能力が効果的でした。

 いまだそうした時代の遺物のような組織は残っています。
 はい。組織のフラット化、ネットワーク化などといわれていますが、多くの組織がその古い側面をいまなお抱えています。
 そして現在、メリトクラシーと並行して、「ハイパー・メリトクラシー」(超実力主義)が進行しています。このハイパー・メリトクラシーの社会では、客観的に測定・評価できる知識や技能ではなく、「非認知能力」の重要性が問われます。それは、心の知能指数といわれるEQとか、人間力とか、生きる力とか、創造性とか、問題解決力とか、対人関係力とか、コミュニケーション力といった融通無碍で曖昧な能力です。
 私は、これらの非認知能力を総称して「ポスト近代型能力」と呼んでいるのですが、共通しているのは、第1に性格や価値観まで含んだ「当人の存在全体」に関わる性質のものであること、第2に、この点が何より問題ですが、公正無私な評価が難しいことです。個性を測定しようがないのと同じです。