恣意的な評価から逃れられない
「非認知能力」競争の落とし穴

 企業の人事評価では、可能な限り客観性を高めようとしています。たとえば、あるべき人材像を設定し、そこから要素還元して求められる能力を導き出すコンピテンシーモデル、あるいは上司をはじめさまざまな関係者によって評価する360度評価などが導入されています。
 それでも、つまるところ評価者のさじ加減次第なわけですよね。恣意性や属人性を排除できません。また、評価者を増やしたところで、最後の最後では平均や多数決的な判断になるのでしょうから、やはり手続き的な公正さは期待できません。必ず不公平や差別が入り込むにもかかわらず、それらは隠蔽されてしまいます。
 あるカンファレンスのパネルディスカションに参加した際、昔ながらの徒弟制度で職人としての心構えや技能を教えている某ものづくり会社の社長さんと一緒になったのですが、「人間力」の重要性をしきりに訴えていました。私は黙っていられず、「人間力なんて言葉を軽々しく使わないでほしい」とその場で抗議し、その理由を説明しました。
 人間力とは、いったいどのような能力なのでしょう。文部科学省の人間力戦略研究会が出した報告書では「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力と定義したい」と書かれています。座長以下、抽象的であることを承知しており、ごていねいに「この定義は、多分にあいまいさを含んでいる。しかし、私たちは、人間力という概念を細かく厳密に規定し、それを普及させることをこの研究会の使命とは考えていない」という無責任な言いわけが添えられています。
 ふるっていることに、人間力の構成要素があれこれ示されています。基礎学力や基礎知識は百歩譲ったにしても、論理的思考力、創造力、コミュニケーションスキル、リーダーシップ、公共心、規範意識、さらに意欲、忍耐力、自分らしい生き方や成功を追求する力などなど――。
 ハイパー・メリトクラシーでは、こうした非認知能力を臨機応変に発揮することが求められます。しかも、その能力が優れている、向上している、あるいは陳腐化していないことをたえず証明し続けなければなりません。
 しかし、非認知能力は認知能力と異なり、ノウハウ本を読んだりセミナーに通ったりと勉強に励んでも、それなりの進歩は得られるでしょうが、必ずしも高いレベルに到達できるとは限りません。しかも、身につくにはそれなりの時間を必要とします。
 創造性やセンスといった能力は、幼少期から家庭の内外で受けた教育や積み重ねた経験の影響が少なくありません。つまり、潤沢な経済資本、文化資本、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)が身の回りにあったかどうかが大きい。
 ちなみに、先ほどのフィリップ・ブラウンは、「ペアレントクラシー」という現象を指摘しています。親が受けた教育、親の教養や経済的余裕や社会的地位によって、子どもの成功や社会的地位が変わってくる、と。このペアレントクラシーは、昨今の学歴競争にも大きな影を落としています。

 一つの状況証拠として、1990年代後半から、おっしゃるようなポスト近代型能力に関する本が売れています。
 「ジェネリックスキル」というものもあります。非常に汎用性が高い、そして応用自在な幅広い知識のことです。これに関連して、経済産業省は2006年から、産学連携による「社会人基礎力」――「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」の3つの能力と12の構成能力――を育成するカリキュラムを試行的に導入していますが、人間力と同じく、私は懐疑的に見ています。
 もちろん、こうした非認知能力の必要性や重要性を否定しているわけではありません。何しろ、人間が社会生活を営むうえで当たり前に存在しており、日常的に使われているものですから。
 ただし、優劣をつけて選別するとなると話は別です。そもそも、どのように形成するのか、その方法や仕組みすら整備されていません。これから生産労働人口が減るだけでなく、イノベーションなどの新奇性を生み出すためにも、外国人労働者に来てもらわなくてはなりません。その時、人間力が重要などと言っていられるのでしょうか。
 これも繰り返しになりますが、私が危惧しているのは、これらの能力の評価基準は多分に抽象的で、評価にしても処遇にしても恣意的になりやすく、こうした融通無碍な基準によって、人生の重要なイベント、たとえば就職、昇進、報酬などが決められてしまうことなのです。それに伴って、さまざまな格差や序列が生み出されてしまう。もう少し厳しい表現をすれば、いかなる差別もまかり通る危険をはらんでいるのです。

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