バブル崩壊以前にもいわれていましたが、特定の専門分野を深耕する「I型」ではなく、自分の得意分野を深めながら隣接分野へも広げていく「T型」、あるいは2種類以上の専門性を磨く「W型」、最近では「π(パイ)型」と呼ばれる人材モデルを、あらためて奨励していくということですね。
 おおむねそういうことです。ただし、フレックスペシャリティを効果的に機能させるためには、「ジョブ型雇用」が社会全体に広がることが不可欠です。
 ご承知の方も多いでしょうが、年功序列や終身雇用などを前提とした雇用形態を「メンバーシップ型雇用」といいます。その最大の特徴は、人を採用してから仕事を割り振ることです。かたや、昨今提唱されているジョブ型雇用は、職務に対して人が割り当てられるものです。
 運用のやり方としては、たとえば、専門性に基づいた具体的なジョブを切り出し、カテゴリー化し、格子状のグリッドをつくります。このグリッドと自分の専門能力とを照らし合わせ、合致したジョブに従事する。ジョブ型雇用では、人間力など評価に恣意性が入り込む非認知能力による査定は御法度であり、あくまで定義された業務のパフォーマンスで定量的に評価するのが原則です。
 また、ジョブ型雇用はキャリアが固定化しやすいという指摘がありますが、フレックスペシャリティであれば心配いりません。たとえば、ジョブの習熟度や必要性、自分の興味や関心などから、いまのジョブをより深めるもよし、また隣接するジョブや関連するジョブに挑戦するもよし、自分の専門性を縦横に開発していく。もちろん、別の会社に移ることへの制限もなしです。
 このように専門性で切り分けたジョブ型雇用は世界標準です。そして、すべての人々に「居場所」と「出番」が与えられる社会への第一歩になるはずです。それは、「水平的多様化」、すなわち能力が一人ひとり異なるという異質性や多様性を担保する制度と共通言語をつくる第一歩でもあります。なお、政府が掲げる同一労働同一賃金も、ジョブ型雇用が実現して、初めて成り立つものです。

 私の知る限りですが、見識のある人事担当者は、メンバーシップ型がすぐにはなくならないけれども、近い将来、ジョブ型雇用にシフトしていくと考え、ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)の作成など、すでに準備に入っています。
 ぜひ加速していただきたいものです。実際、いまからジョブ型雇用への移行に取り組まなければ、10年後、もしかすると20年後までいまのようなもじれた状況が続いていくことになります。
 現時点でも、専門性の高い仕事だけに従事している、ジョブ型といえる職種限定の正社員が2〜3割は存在しているという調査があります。これをさらに拡大させる一方で、時間限定型や地域限定型といった横展開を図っていく。こうしたオプションが広がれば、老若男女を問わず、育児や介護、病気などで離職や休職を強いられることなく、バランスを持って働くことが可能になります。
 将来的には、ジョブ型雇用から始まる個人の専門性の形成という新しい社会の仕組みが、労働市場、そして家庭や教育の現場に広がっていくことが望まれます。

 ジョブ型雇用では、個人と企業が対等の関係で交渉し、公平な契約が成立するともいわれています。
 先ほど申し上げた潜在的脅迫や同調圧力などは影を潜めていくでしょうが、ジョブ型雇用という制度だけで、公平な交渉や契約が担保されるとは言い切れません。補強するための策が必要です。
 日本的経営の三種の神器の一つ、「企業内労働組合」も力を失い、労使交渉はすっかり形式化・儀式化しています。とはいえ、メリトクラシーとハイパー・メリトクラシーによって誰もが組織や社会の片隅に追いやられかねない現実がある以上、ヨーロッパのようなアソシエーションを組織し、搾取的な労働やハラスメントなどに声を上げていく態度が、あらためて必要なのではないでしょうか。ただし、同床異夢にならないように、それこそジョブ別とか目的別とかわかりやすく、かつオープンに連帯できるものが望ましいと思います。 

 以上のお話を聞いて、先生の頭の中では、すでに具体的なオルタナティブが描かれていることがわかりました。
 産業界のリーダーたちは、「企業の社会的責任」「公器としての企業」といったことを口にされます。いま起こっている労働や雇用に関する問題も、深刻な社会問題の一つです。気候変動や環境と同様、時には人間の命が失われることもあります。
 かつての日本型雇用モデルを再現することはまず不可能でしょう。右肩上がりの経済成長あってのものだったことはご承知のはずです。にもかかわらず、旧態依然の前提のまま、接ぎ木に接ぎ木を重ね、従来のシステムを運用している。言うまでもなく、新しいシステムへの転換が求められています。そして、その青写真はある程度はっきりしています。であるならば、後は決断するだけです。社会はそれを待っています。


  1. ●聞き手|岩崎卓也(ダイヤモンドクォータリー編集部) ●構成・まとめ|奥田由意、岩崎卓也
  2. ●撮影|中川道夫 ●イラスト|モトムラタツヒコ