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『道徳感情論』のキーワード⑤
心の平静

 スミスは、富が増大することを喜ばしいと考え、その原動力となる人間の弱い部分、すなわち自己利益の追求が無制限に発揮されることで人々に幸福がもたらされる、と考えたのでしょうか。

 そうではありません。スミスの考えた幸福について簡単に説明しましょう。

 彼は、ストイック(禁欲主義)の語源ともなったギリシャ哲学のストア学派の影響を強く受けており、スミスが言うところの幸福とは「心の平静」を得ることでした。そのためには、心身ともに健康で、大きな借金がなく、良心にやましいところがあってはなりません。

 賢人であれ、弱い人であれ、誰にとっても最低水準の富は必要です。この最低水準にすら届かない状態、すなわち貧困に陥ると、不便で過酷な生活を強いられるだけでなく、他人から共感されにくくなります。人間には、貧しい人を軽蔑し、無視する傾向があるからです。

 スミスは、富と幸福の関係を図表「賢人の幸福、弱い人の幸福」のように考えました。横軸は「富の総量」を、縦軸は「幸福度」を表します。ABCDは賢人が予想する富と幸福の関係を、同じくABCEは弱い人が予想する富と幸福の関係を表しています。

 このうち、点Cは「健康で、負債がなく、良心にやましいところがない状態」で生活できる富の水準です。このCを下回るところが貧困の状態です。

 賢人の場合、線分CDが水平であることが示すように、最低水準の富さえあれば、それ以上、富が増えても自分の幸福が増進するわけではないと考えています。他方、弱い人の場合、最低水準の富を手にした後も、さらに富が蓄積されれば、それだけ幸福も増していくと考えます。ですから、線分CEは右上がりになります。

 実際には、あり余る富の持ち主になったところで、幸福が大きく増大するわけではありません。豪華な家や広大な土地があっても、盗難への備えや管理する手間などで煩わしかったりしますし、他者からの称賛も妬みや陰口によってかき消されてしまうかもしれません。したがって、スミスによれば、幸福と事後的な富の関係は、賢人が予想したもの、つまりABCDに近いものになります。

 線分CDと線分CEで区切られる三角形は、弱い人の「幻想」を表すといってよいでしょう。弱い人たちは、贅沢品を手に入れることで幸福を実現しようとするのですが、願うだけの幸福を手にすることはできません。しかしながら、他方では弱い人たちの野心によって、経済は発展し、貧困が減り、社会は繁栄していくのです。