ある意味、ホッとしましたが、スミスの言うことに納得し、甘受してしまっては、何も変わらないように思います。財産への道と徳への道のどちらか一方ではなく、やはり同時に追求すべきではないでしょうか。

 私は、こう考えます。人間は、生物として単に生きる、生き長らえるだけではなく、「善く生きる」とはどういうことかをまず考え、それを支える物質的基盤はどうあるべきかを考えてきた。それが動物との違いである。経済という言葉の語源である経世済民とは、こうした人間の営みを言い表しています。

 ところが、近代以降、この順序が逆転したように思います。どうすれば高い経済成長が可能なのか、どうすればイノベーションが起こせるのか、持続可能な成長はどうすれば実現できるのかをまず考え、それに合わせて人間が生きる意味を考えているように見えます。

 言い換えると、すべての中心にいつも経済があり、またビジネスがあり、それを実現するためにふさわしい組織や制度がつくられ、その中で人々が働き、その余裕の中で生きる意味を考える、という順序です。

 これは目的と手段の転倒です。人間は互いに共感しながら生きる存在であり、その結果として経済が生まれた、とスミスは考えました。その経済から生み出される富自体が人生の目的なのではなく、本当の目的は心の平静にあると訴えました。

企業活動の社会化が
「共感価値」を創造する

 心の平静の獲得にまで踏み込むかどうかはともかく、ビジネスリーダーの人たちには、考え方や価値観を見直す時期が訪れているのではないでしょうか。たとえば、地球環境への負荷、天然資源の枯渇、貧困や経済格差といった社会問題が象徴的ですが、企業が利益を求めることを無制限に許し、それこそ見えざる手の働きによって、すべての問題が解決するという考え方は楽観にすぎる、と言わざるをえません。

 では、どうすればよいのか。私は「企業活動の社会化」をもっと推し進めるべきだと考えます。具体的には、利益の追求だけではなく、自分たちのビジネスの社会的価値を見つめ直すべきです。

 社会化は、文字通り社会全体の利益を考慮することです。社会的な活動には、国連などの超国家機関から、各国政府、企業、NPOやNGO、一般市民まで、さまざまな組織と人々が関わってくるわけですから、当然意見や価値観が異なったり、足並みが揃わなかったり、時には論争や対立が生じたりするかもしれません。

 だからこそ、共感が重要なのです。目指すべきは「共感資本主義」だと思います。人間が本来持っている共感の能力をてこにして、経済活動を通じて人と人のつながりを強めていく。そうして人々の幸福の増大に寄与していく――。それが共感資本主義です。

 きれい事に聞こえるかもしれませんが、経済価値優先の資本主義から脱却し、また個人の自由を締め付ける社会主義に陥ることなく、政府や企業をはじめ、社会を構成するメンバー一人ひとりがそれぞれの持ち場で、他者への共感を持って考え、行動することが不可欠です。こうした各人の小さな取り組みが積み重なり、広がっていくことで、未来の礎が築かれていくのです。

 ピーター・ドラッカーいわく「企業は経済機関ではなく社会機関である」。いまではCSRという表現が一般化していますが、「企業には社会的責任がある」という考え方は以前より存在していました。最近では、ESGやSDGsが大変注目されています。

 活動に社会性を持たせようとする企業は増えていると思います。企業活動がグローバル化する中で、世界の企業と競争して生き残りながら、なおかつ自国のみならず世界の課題解決に貢献する活動を続けていくのは、並大抵の努力ではできません。

 我々は、投資家として、そして消費者として、そのような活動を続ける企業を応援し、存続させる責任を負っていると思います。CSRを企業経営者だけに押し付けるのは、間違っているのではないでしょうか。

 経済活動がグローバルに広がっている現在、公平な観察者による道徳判断もグローバル化されなくてはなりません。すなわち、特定の国や民族、宗教の中だけでしか通用しない「閉じられた観察者」ではなく、人間として判断する「開かれた観察者」が必要です。

 開かれた公平な観察者の立場に立って、自国の企業だけでなく、外国の企業の活動も評価し、グローバル社会に貢献する企業を、投資家として、消費者としてサポートする意識を広めていくべきです。

 人の動きもグローバル化し、SNSなどで見知らぬ人たちが国境を超えてつながるようになったいま、世界の多様な人たちが互いに知り合い、共感を寄せ合う機会は飛躍的に増大しました。

 ノーベル経済学賞受賞者でハーバード大教授のアマルティア・センは、アダム・スミスを再評価し、スミスの現代的意義を訴える一人ですが、「開かれた公平な観察者」を形成するための環境は整っている、と述べています。
センは、開かれた公平な観察者を形成するためには、各自がアイデンティティ(自分が自分であること)の複数性を認識する必要があると論じます。つまり、自分の拠り所は、国籍、民族、宗教、年齢、性別、居住地、職業、政治信条、趣味など複数あり、一つに限らないはずである、と。

 彼は、誰もが複数のアイデンティティを持って、それらを相手や場所に応じて臨機応変に利用し、さまざまな人たちと交流の輪を広げ、共感を深め合うことができれば、個人の特異性を承認し合いながら、共有できる価値観を拡げていけると考えたわけです。