6つ目の効用として、「上達(習熟)できる」ことが挙げられます。マニュアル車とオートマ車を比べたら、運転技術の限界というものはなく、上達の伸び代が大きい。マニュアル車の場合、運転技術の限界というものはありません。また、多くの家電製品は、料理の手間暇を減らし、料理の仕上がりも一定水準を保証してくれましたが、料理そのものの手腕を上げてくれるわけではありません。

 7つ目は「私だけ感」が得られることです。マニュアル車の場合、車の癖みたいなものがわかってきたり、あるいは自分の運転の癖がついたりすることで「自分だけの車」といったパーソナル化や愛着が生まれてきやすい。同じく、紙の辞書は使い込めば使い込むほど、自分と辞書との歴史の証ともいえるクタクタ感が増していくものです。

 最後の効用は「能力低下を防ぐ」ことです。先ほどお話しした、意図的に段差や階段を住環境に取り入れるバリアアリーは、身体能力が低下する速度を緩めてくれます。そもそも多くの便利は、人間の能力を代替するものです。ですから、便利に背を向けることで、能力の喪失や低下を防止できるのです。

現代の“神”を疑う

 遊びのない窮屈なシステムの危うさ、あえて余白や余地を残した思考やデザインの重要性についても訴えられています。

 おそらく数字では表現できないでしょうが、適度の「余白」とか「余地」の存在は非常に重要です。私と一緒に不便益を研究している人がいて、彼は自動運転の専門家なのですが、「ユーザーに工夫する余地がなければならない。だからこそ不便益が必要である」と声高に主張しています。

 その一方で、自動と手動が混在すると、事故の発生要因になるかもしれません。すると、いきおい手動運転が禁止される可能性すらあります。「運転しなくてよい」が「運転してはならない」と言われる日が来る、と。それは嫌ですね。実際、便利志向、自動化機能を備えた製品の多くは、「しなくてよい」が、いつの間にか「させてくれない」に遷移しています。

 そのような時代にあって、人間は機械やAIと、どのように折り合いをつけていけばいいのでしょうか。

 私たちの世界を支配している絶対的なルールというものがあります。「物理現象」です。物同士は自分の重さに比例した力で引っ張り合っているという万有引力の法則がまさにそれで、言わば「物との約束」です。これは自然界において絶対に裏切らないものであり、だから物理すなわち「物の理(ことわり)」と呼ばれるのでしょう。

 その一方で、人為的な力や思惑が混入する「人との約束」があります。安全や品質、あらゆる人間関係、ビジネス、組織や国家、機械やAIなど、あらゆる人工物はすべて人との約束で成り立っています。それは物との約束と違って確固不抜ではなく、場合によってはいとも簡単に破られるものです。言い換えれば、人との約束は「破られるか破られないか以前に信じるしかない」約束です。

 こうした人との約束を鵜呑みにするとは、どこかで思考を合理化しているわけで、思考を深める機会を逸しているのです。デジタル技術がどんどん賢くなり、人との約束の比重が大きくなると、たとえば故障やトラブルのように、それは約束が破られた時のダメージも大きいでしょう。また、クラウドコンピューティングが当たり前になりましたが、そこに記録されているものは触ることも確認することもできません。実体が目に見えないのです。「そこにちゃんとあります」という人との約束を信じるしかない。

 人間は楽を覚えると、次からも楽を選んでしまいがちです。そこで、便利や効率性といった現代の“神”を無条件にあがめることを慎み、立ち止まって思考をめぐらし、人との約束を疑ってみることが必要です。常識とされていることにあらためて目を向けるのは至極まっとうな思考法であり、深く考えることの価値を知るからこそ、なせる業といえるでしょう。


  1. ●聞き手|岩崎卓也(ダイヤモンドクォータリー編集部) ●構成・まとめ|荻野進介、岩崎卓也
  2. ●撮影|大島拓也 ●イラスト|ネモト円筆