やはり大きな飛躍は、そう簡単には起こらないようですね。

 21世紀前半は、さまざまな次世代車が並立する「技術多様化の時代」であろう、と私は予想しています。具体的には、燃費のさらなる改善を重ねるガソリン自動車やディーゼル自動車の進化型、次世代ハイブリッド車が主流を占める一方、タクシーやカーシェアリングなど限られた地域での短距離走行には電気自動車、高速バスや路線トラックなど規則的なルートの長距離走行には燃料電池車といった具合に、地域や用途に応じた使い分けが行われるのではないか、と。

 とはいえ、画期的な電池技術が開発される可能性、ガソリン自動車やディーゼル自動車との比較など、いくつかの前提条件付きで申し上げれば、電気自動車の分野では、設計の単純化やモジュラー化がある程度進んでいくでしょう。ただし、この場合のモジュラー化は、PCのように標準部品を組み合わせたオープン・モジュラー型製品のそれとは異なることを忘れてはなりません。

 以前から、電気自動車を「自動車のPC化」と例える類の論説が後を絶ちません。なるほど素人にもわかりやすい比喩(アナロジー)ですが、自動車とPCとの本質的な違いを理解していない、見当外れの議論と言わざるをえません。

 自動車産業の未来というと、「自動走行」も忘れてはならないトピックの一つです。

 自動走行については、日本も含め、各国がその定義を発表していますが、いわゆるレベル4の完全自動化が、世界中のあらゆる道路で実現可能かどうかは、まったくもって予測不可能です。

 たとえばグーグルは、ビッグデータやAIの幾何級数的な進歩をもってすれば、レベル4の自動走行も可能であると主張していますが、地上の世界、つまり人間による総合的な判断が決定的に重要な領域を無視することはできません。

 もしも完全自動走行の車が普通に街の中を走れるようになっても、人間が運転する車と混在する状態はかなり長期間続くことでしょう。また、そうした混在した交通体系の中で、円滑な完全自動走行がはたして実現しうるのかどうか。たしかにデジタル技術やAIの能力は幾何級数的に拡大していくでしょうが、複雑化のペースも同じく幾何級数的に高まっていくのです。

 自動走行に関する最近の論説を聞くと、「そもそも何のためなのか」という社会ニーズの意識がやや希薄で、技術の新規性そのものを強調するケースが多いようですが、このことには違和感を覚えます。過去を振り返ってみると、画期的な製品というものは、それこそ19世紀の自動車しかり、電話しかり、テレビしかり、携帯電話やスマートフォンしかり、人々の人生を変える顧客ニーズや、切実な社会ニーズを解決した時、初めて爆発的に普及しています。

 たとえば、レベル4の完全自動走行への切実なニーズを抱えているのは、運転免許のない、あるいは返上した後期高齢者、要介護の人たちが相対的に多い地域でしょう。過疎地に至ってはバスが一日数本といった状況ですから、切実さはいっそうです。

 こうした地域では、たとえば自動走行車専用のルートや道路を整備するなど、交通インフラの見直しがなされてしかるべきです。

 また、日本は、65歳以上の人口が全体の21%を超える超高齢社会に世界で最初に突入した国であり、そこから必然的に生じうる社会課題や社会ニーズを解決するという目的において、完全自動走行の実現に取り組むべきではないでしょうか。

 近未来においては、むしろレベル3の半自動運転車へのニーズのほうが大きいでしょう。日本は長年にわたるさまざまな努力により、交通事故の死亡者を大幅に減らしてきましたが、それでもまだ年間3904人(2016年)の死亡者がいます。しかも、いまやその半数以上(2138人)が65歳以上の高齢者です(注2)

注2)警察庁交通局交通企画課「平成28年中の交通事故死者数について」(2017年1月4日)より。

 さらに、高齢者ドライバーによる交通事故が社会問題化しつつあります。しかし、高齢者全員に免許を返上させよといった提案は、大都市内はともかく、過疎地こそが高齢化社会であるという実態を考えれば、現実的ではありません。これでは問題は解決しません。

 また、団塊の世代がほどなく後期高齢者になります。その際、彼ら自身が運転していても、実は自動走行システムが「影のドライバー」としてサポートしているという、高度な半自動走行車が求められるのではないでしょうか。これは、いざという時にはドライバーが運転するという、いま警察などが言っている「レベル3」よりも、たとえばドライバーが急病やパニックを起こした時や突然運転不能になった時、すぐさまそれを感知して自動走行に切り替わる、言わば「逆レベル3」というものです。

 道路やドライバーの状況などの変数を考えると、この逆レベル3のほうがよほど技術的に難しいかもしれませんが、社会ニーズは高いのではないでしょうか。いずれにせよ、技術のための技術を誇る、あるいは社会ニーズより技術進歩を優先させる議論はあまり健全とはいえないでしょう。