日本人、その集団である日本企業は、このように批判されてきた。同質的、閉鎖的、横並び志向、村社会、会社人間、没個性、出る杭は打たれる――。
  他方、このように称賛されてきた。協調的、利他的、強い絆、結束力がある、チームワークを大切にする、帰属意識が高い、和をもって貴しとなす――。
  よくも悪くも、以上のような「集団主義的」な特徴こそ、日本人、日本企業の基本特性である。そう信じられてきたし、いまもそう考えられている。何しろ企業不祥事が起こると、アメリカ人は自分の利益のために不正を犯すが、日本人は組織のために不正を犯す、とすらいわれる。
  『「集団主義」という錯覚』(新曜社)を著した認知心理学者の高野陽太郎氏は、こうした「日本人イコール集団主義論」という定説を真っ向から否定する。高野氏は、日本人論(時には日本学ともいわれる)の著作や論文の「もっともらしさ」に疑いのメスを入れる。同時に、日本とアメリカの比較研究を知りうる限り検証し、日本人イコール集団主義論という定説は事実ではない、と結論する(その詳細については先の著作を一読されたい)。
  我々は、白か黒かの二元論を選好しやすく、原因をもっぱら内的要因に求めたり、自分の仮説を支持してくれそうな状況証拠を集めたり、ステレオタイプを鵜呑みにしたりといったバイアスに陥りやすい。高野氏によれば、日本人イコール集団主義論の原因は我々に巣食っている思考の癖や偏見にあり、多くの歴史が物語っているように、こうした偏った思考やステレオタイプは、時にはジェノサイドのような残虐な行為すら引き起こすという。
  日本企業の半数以上は、いまなお日本人が大半を占める同質性の高い組織かもしれない。しかし、製品や競争のグローバル化だけでなく、これからは経営や人材のグローバル化が求められている。その際、バイアスやステレオタイプの存在をわきまえ、その罠にはまることなく、公平無私のマネジメントを実践できるかどうか。
  以下のインタビューで語られる高野氏の知見に触れることで、誰もが持っている思考の悪癖を認識し、その弊害や危うさを理解できるはずである。

「日本人は集団主義的」
という錯覚

編集部(以下青文字):日本人は、たとえば「個人よりも集団の利益を大切にする」「チームワークに長けている」と信じられてきました。しかし、こうした通説は必ずしも事実とは言いがたい、と述べられています。

YOHTARO TAKANO
フルブライト奨学生としてアメリカに留学し、コーネル大学心理学部で博士号を取得。専門は、認知心理学、社会心理学。バージニア大学専任講師、早稲田大学専任講師、東京大学文学部助教授、東京大学人文社会系研究科教授を経て、現在、放送大学客員教授、明治大学サービス創新研究所客員研究員。主な著書に、『傾いた図形の謎』(東京大学出版会、1987年)、『鏡の中のミステリー』(岩波書店、1997年)、『「集団主義」という錯覚』(新曜社、2008年)、『認知心理学』(放送大学教育振興会、2013年)、『鏡映反転』(岩波書店、2015年)が、また共著に、『心理学研究法』(有斐閣、2004年)、Inter/Cultural Communication: Representation and Construction of Culture, SAGE Publications, 2013.、『認知心理学ハンドブック』(有斐閣、2013年)がある。

高野(以下略):「東洋の奇跡」と呼ばれた敗戦後の復興と急速な経済成長の秘密を明らかにしようと、1970年代をピークに、「日本人論」あるいは「日本文化論」といわれるジャンルの書籍が2000点近く出版されました。
 基本的に「日本人とは何者なのか」「日本人と欧米人との違いは何か」といった問いへの答えを求めて、さまざまな立場の人たちが論を展開していますが、そのほとんどが「日本人は集団主義的である」という主張です。そこから派生して、日本人は、たとえば「海外では群れる」「自我が確立していない」「個性に乏しい」「自己主張しない」など、否定的なラベルが貼られてきました。
 言うまでもありませんが、集団主義とは、自分の利益よりも、自分が所属する組織やグループの利益を優先するという考え方で、その逆が個人主義です。
 かつて「日本株式会社」といわれたことがありましたね。この言葉の背景には、あのような経済成長が実現したのは、政府と産業界が緊密な協調関係にあり、日本全体が一つの営利集団として行動したからである、という認識がありました。
 1970年代初頭、日米貿易摩擦が深刻化する中、日本には市場原理とは異なる原理が存在しているのではないかという批判的な観点から、アメリカ商務省が日本経済に関する調査を実施し、日本株式会社論はより決定的なものになっていきます。その後、80年代のジャパンバッシングへと発展します。
 しかし90年代になると、一転してアメリカに好況が訪れ、かたや日本は長い不況に陥ります。ところが、この時も日本の集団主義が元凶であるといわれました。そこには、日本の集団主義は自由主義経済に仇なすものであり、日本や日本企業に経済制裁を科すのは当然の行為であり、言わば正義なのだという考え方がありました。

 同時に、日本的経営や商慣行への懐疑や批判が始まり、やがては悪玉論が支配的となると同時に、アメリカ型の株主主義経営が礼賛されるようになりました。
 ご指摘の通りです。こうした言説が繰り返された結果――いまなお続いています――「日本人は集団主義である」というステレオタイプがすっかり定着しています。
しかし、日本人論に関する文献をつぶさに見直してみると、実は科学的根拠に乏しく、日本人が集団主義的であるとする記述や伝聞、あるいは個人的な経験を恣意的に選んで、このように結論しているのです。いくつかご紹介しましょう。
 たとえば、英語にもなった系列については、東京大学の三輪芳朗氏とハーバード・ロースクールのマーク・ラムザイヤー氏の共同研究によれば、そのような実態はなかったそうです。そして、日本株式会社についても、政府が産業政策によって日本企業を選別・育成してきたとはいわれるものの、実際にはそれほど大きな効果はなかった、というのが彼らの調査結果です。(注1)
 先ほど市場の閉鎖性が非難されたことに触れましたが、日本とアメリカの関税を比較してみると、日本の関税が最も高かった時ですらアメリカよりも低かった。非難を受けた当時もそうでした。実際、日本の関税がアメリカより高かったのは、世界的に関税が大きく引き下げられた1964~67年のGATT(関税および貿易に関する一般協定)、いわゆる「ケネディ・ラウンド」の時くらいです。
 日本的経営といえば、「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」という三種の神器がよく引き合いに出されます。これを唱えたジェームズ・アベグレンの『日本の経営』(ダイヤモンド社)はもとより、ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(TBSブリタニカ)などは、集団主義こそ日本企業の強みであり、彼らに学ぶべきだと訴えました。
 ほめてくれているとはいえ、彼らの主張にも科学的な反証が出されています。たとえば経済学者の小池和男氏は、日本もアメリカも、賃金は年齢とともに上昇し続け、50代から60代にかけて減少に転じており、この傾向は1970年代からあまり変わっていないことを明らかにしています。
 また、日本、アメリカ、ドイツについて、年齢と勤続年数との関係に関する調査データを調べ、どの国でも年齢が高くなるにつれて勤続年数は長くなっているという事実も発見しています。(注2)要するに、年功賃金と終身雇用は、日本独自の労働慣行というわけではないのです。
 こうした年功序列や終身雇用に加えて、労使協調型の企業別組合の存在が、従業員の忠誠心を後押ししているといわれましたが、これもどうやら怪しいようです。
 電機労連が、日米の電機メーカー従業員を対象に1988年に実施した調査では、「会社の発展のために最善を尽くしたい」と答えた人は、アメリカでは64%だったのに対して、日本では29%でした。
以上のように、三種の神器は、日本的経営の特徴といえないばかりか、日本企業の成功要因といわれた集団主義を支えるものでもなかったのです。

注1)三輪芳朗、マーク・ラムザイヤー『日本経済論の誤解』(東洋経済新報社、2001年)、ならびに『産業政策論の誤解』(東洋経済新報社、2002年)を参照。
注2)小池和男『仕事の経済学(第3版)』(東洋経済新報社、2005年) を参照。

 三種の神器以外にも日本的経営の特徴はいろいろあります。経済同友会が1991年に発表した報告書を見ると、日本的経営の特徴を一覧できます(図表「日本的経営の特徴」を参照)。
 これが、一般的に信じられてきた日本的経営の特徴なのですね。しかし、そう断定するには実証された根拠が必要ですが、それが示されていません。
 統計学や実験に基づく調査や分析が導き出した客観的な結果よりも、おしなべて「みんなが言っている」「みんなが知っている」ことを主観的に選択していることが、日本人論の大半に共通する問題です。
通説とされてきたことがきちんと検証されないまま、あるいは検証されたとしてもその結果がほとんど無視されたまま、あたかも事実として定着してしまった。拝見した日本的経営の特徴についても、その根拠を一度疑ってみるべきでしょう。

日本人論の始まり

  日本人が集団主義であるという通説は、いったいどのように生まれてきたのですか。
 私が調べたところでは、その起源は開国まもない19世紀に来日したアメリカ人に由来します。彼は「火星の表面の縞模様は、火星人のつくった運河である」という説を唱えたことで知られる、パーシヴァル・ローウェルという天文愛好家で、著書の中で「日本人には個性がない」と述べています。
 この当時、アレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』などの影響もあってか、アメリカ人は個人主義的だという説がすでに広まっていました。実際、当のアメリカ人たちも「我々は開拓者である」「開拓者精神が我々の魂である」という自己イメージを持っており、自由主義、すなわち個人が自由に判断し行動することを誇りにしていました。
 ローウェルに話を戻すと、彼は1889年から93年にかけて日本を5回訪れ、約3年間滞在しています。その経験に基づいて書かれたのが『極東の魂』(公論社)です。19世紀といえば、白人至上主義が幅を利かせており、こうした西洋的価値観から、ローウェルは日本人のことを「個性がない」「自我に乏しい」「独自の思想がない」、それゆえ「集団を重んじる」「輸入と模倣に徹する」と断じました。
 当時の欧米人は、このように推測していました。「欧米がアフリカやアジアを植民地化する中で、日本だけがそれを逃れているばかりか、工業化を進め、欧米諸国と肩を並べて、ついには中国やロシアといった大国と戦争するまでになった。それはなぜか。きっと日本人には、我々が知らない特殊性があるに違いない」
 ちなみに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、この『極東の魂』に影響されて日本にやってきたそうです。
 「日本人は個性がなく、集団主義的である」という結論は、極東の小国にもかかわらず、植民地化されず、逆に植民地化に乗り出し、工業化にも成功した理由を説明するうえで何とも説得力があった。すなわち、一人ひとりの力ではできないことも、力を合わせて集団として取り組めば大事を成し遂げられる、というわけです。
 その後、ローウェルが原因かどうかまではわかりませんが、アメリカの知識人の間では、日本人は集団主義的であるという見解は一種の常識になっていきます。実際、アメリカでつくられた大戦中の反日プロパガンダ映画では、日本人は集団主義的であるとしきりに主張しています。
 そして戦後、この通説を前提に書かれたのが、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』です。彼女は戦争情報局の日本班のリーダーでしたが、日本におもむいたことはなく、日本に関する文献調査、日本人捕虜や日系移民へのインタビューに基づいて、この本を著しました。
 実は、『菊と刀』に集団主義という言葉は出てきません。しかしその内容は、日本人は集団主義的であるというものです。この本がきっかけで、日本でも、日本人イコール集団主義という説がいっきに広まります。
 もちろん、批判もありました。『季刊民族學研究』(岡書院)は、日本語訳が出版された翌年(1949年)に『菊と刀』に関する特集を組んだのですが、哲学者の和辻哲郎や民俗学者の柳田國男らが批判や反論を寄稿しています。

 こうした日本を代表する知識人たちの攻防空しく、日本人イコール集団主義論という偏ったステレオタイプが世界的に広がってしまいました。
 戦後は、日本人イコール集団主義論が意図的に展開されてきたきらいがありますが、その後は親日派や日本人の研究者たちからも同様の指摘がなされるようになります。
 日本生まれで、駐日アメリカ大使を務めた東洋史研究家のエドウィン・ライシャワーは、日本人について欧米で広く受け入れられている考え方とは「厳格な社会規律をおとなしく守り、その社会の既成のパターンをたえず繰り返す、従順なロボットのような画一的な人種」であると述べています。
 そのほか、このような言われ方もされていました。たとえば、常に集団として行動する日本人は、組織の和を大切にし、組織のためには個人が犠牲になることもいとわない。その和を乱す異分子を組織や集団から排除しようとする。「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、同質的な社会では異彩を放つような行為は慎むべきである。また、自分が所属する組織や集団のウチとヨソを峻別し、ウチの人たちには温かい気遣いを示すが、ヨソの人たちには邪険に当たる。
 社会人類学者の中根千枝氏は『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)の中で、集団を統制する原理は、上が下を支配し、下が上を支えるというタテの関係が主軸となる、このタテの関係が権力の乱用を可能とし、権力に対する一般国民の恐怖を植え付けたようである、と述べています。
 アップルの会長を務めたジョン・スカリーは、あるインタビューの中で「ソフトウェアは個人的に創造されるものだが、日本文化は個人的な創造性を発揮するようには組織されていない」と語っています。言い換えれば、日本人は集団主義のせいで個人の創造性が低い、と。

「アメリカ人は個人主義的」
という錯覚

 このように、日本人が集団主義的とされる一方、アメリカ人は個人主義的だといわれますね。これも本当でしょうか。多くの人たちが、疑うことなくそう信じています。しかしやはり、科学的な方法できちんと比較・分析してみる必要があります。
 心理学では、1980年代から、集団主義と個人主義に関する国際比較研究がさかんに行われました。その中の日米比較研究について調べてみました。その結果、日本人が集団主義的で、アメリカ人が個人主義的であるという証拠は見出せませんでした。研究によっては、日本人のほうが個人主義的、あるいはアメリカ人のほうが集団主義的であると結論するものがありました。
 その中で、オランダの社会心理学者にして経営学者のヘールト・ホフステードによる、世界47カ国と3地域のIBM従業員への意識調査があります。(注3)彼は、この調査で「個人主義指標」を用いて、地域別に序列化を試みました。最も個人主義的な国は、やはりアメリカで、オーストラリア、イギリス、カナダという英語圏の国が続き、オランダ、フランス、イタリア、スイス、西ドイツなど欧米諸国が上位を占めました。日本はアルゼンチンと同じの22位、ちなみにお隣の韓国は40位、台湾が41位でした。
 ホフステードにすれば、集団主義の代名詞といわれる日本が22位というのは意外でしたが、欧米諸国と比べると、必ずしも予想を裏切るものではありませんでした。これによって、「グローバル企業は各国の文化を考慮しなければならないが、集団主義と個人主義という次元を用いれば、各国の文化的違いを理解できるのではないか」という考え方が生まれ、その後の国際経営論に利用されるようになります。
 しかし、私がホフステードの調査を検証したところ、ここでは専門的な説明は省きますが、彼はデータを間違って解釈していたことが明らかになりました。彼の「個人主義指標」は、個人主義を表すものではなく、いま申し上げた個人主義の序列はまったく根拠のないことが判明したのです。
 2018年に亡くなられた北海道大学名誉教授の山岸俊男氏が「協調行動」に関する日米比較実験――その詳細については省略します――を行っているのですが、アメリカの被験者たちのほうが日本の被験者よりも集団主義的であるという結果となり、通説は裏切られました。
 我々が、同様の日米比較調査研究24件、実験研究11件についてその結果を調べたところ、集団主義の程度は日本とアメリカで差がないという研究が55%、アメリカのほうが集団主義的であるという研究が31%、日本のほうが集団主義的であるという研究が14%、という内訳になっています。
 この我々の調査から数年後、アメリカの心理学者たちが、集団主義と個人主義に関する国際比較調査すべてについて網羅的に検証したのですが、日米比較についての結論は我々の調査とほとんど同じでした。
 個人主義しかり、集団主義しかり、国や人種にそのようなラベルを貼ることはできないのです。

注3)
この1960年代後半から70年代前半までの6年間にわたる調査は、Geert Hofstede, Culture’s Consequences: International Differences in Work-Related Values, Institutions and Organizations Across Nations, Sage Publication, 1980.(邦訳『経営文化の国際比較』産業能率大学出版部、1984年)にまとめられている。

人間は「状況」に応じて
態度や行動を変える

 戦時中には、「民一億の体当たり」「おのれ殺して、国生かせ」などのスローガンに従い、日本人はまさに集団主義的に行動しました。また戦後は、QCサークルをはじめ、コンピュータ、自動車やバイクなどの開発は非常に集団的な活動でした。
 戦時中は、生死がかかった危機的な状況だったからです。アメリカの歴史家ウィリアム・マクニールいわく、「明白な外部からの脅威こそは、個人というレンガで社会という建物を建てるための、人間の知る限り、最も強力なセメントである」。
 自分一人の力ではおよそ太刀打ちできない外的脅威に直面した場合、日本に限らず、どこの国でも団結を固めようとするものです。世界の歴史を振り返れば、枚挙に暇がありません。最近の例では、アメリカで同時多発テロが起きた時、当時のジョージ・ブッシュ大統領が「団結は最強の武器だ」と演説し、彼の支持率はテロ事件前の50%から89%へと跳ね上がり、不支持率は38%から7%へと激減しました。
 「世界で最も個人主義的」という定評のあるアメリカ人でさえ、外敵の脅威にさらされれば、異分子を排除し、国内の結束を固めようという集団主義的な行動に走るのです。
  こうした傾向は、人間集団に普遍的なものです。ですから、戦時下で日本人が集団主義的な行動を見せたからといって、日本人は集団主義的であることを裏付ける証拠とはいえないでしょう。
 同様に、コンピュータや自動車、あるいは新幹線やダムなど、とうてい一人の力では開発できない類のものも、やはり集団的に取り組まれるわけです。つまり、こうした集団主義的な振る舞いは、「置かれた“状況”の中で選択された行動」であり、日本人固有の性質によるものではないのです。
 ところが、人間の思考には、「対応バイアス」という普遍性の高いバイアスがあります。つまり、なぜそのように行動したのか、その理由を考える時、状況の影響力を無視し、性格や能力、国民性や精神性といった人間の内部要因によって説明しようとするのです。
 このバイアスのため、戦時中の日本人の集団主義的な行動は、戦争という状況によって十分説明できるにもかかわらず、たとえば『菊と刀』などの主張に頼って、日本人の国民性や精神文化に原因を求めてしまった、といえるでしょう。
 日本人イコール集団主義論が一度広まってしまうと、今度は「確証バイアス」という、これまた非常に強力なバイアスが働き始めます。確証バイアスとは、自分が信じるところに合致する事例、強化する事例ばかりに目が向く、というものです。ですから、日本人は集団主義的であるという先入観があると、そのような事例ばかりが目につき、「やっぱり日本人は集団主義的なんだ」とますます納得してしまう。


 これと並行して、思い出しやすいことを過大評価するという種類のバイアスもあります。人間の記憶は、何かの手がかりから芋づる式に引き出されるものなのですが、「日本人は集団主義」という先入観があると、それが手がかりになって、実際には個人主義的に振る舞う例がたくさんあっても、集団主義的に振る舞う例ばかり思い出すということになってしまいます。すると、日本人は集団主義的であると容易に結論付けてしまう。
 こうしたバイアスに陥ると、みんながそう言っているのだから正しいと考えることが強化されます。繰り返しますが、みんながそう言っているからといって、それが正しいことを証明しているわけではありません。

 「置かれた状況の中で選択された行動」について、もう少し教えてください。
 心理学の世界では、人間の行動は状況に応じて変化することが繰り返し証明されてきました。置かれた状況が似ていれば、日本人だろうとアメリカ人だろうと、同じような行動を取る可能性が高い。
 もちろん、人間が状況の奴隷などと申し上げているのではなく、人間は他の動物にない高度な情報処理能力を持っており、現在置かれている状況を分析し、それに適応しようとします。そして、自分が不利益を被らないよう、また有利になるように行動する。ですから、状況に応じて行動が変わるのは当然のことなのです。こうした「状況に適応する」能力は、元来の性格や精神文化以上に大きな影響力を持っています。

文化ステレオタイプの
危うさ

 日本人にしろ、アメリカ人にしろ、ある状況では集団主義的に、また別の状況では個人主義的に振る舞う。したがって、言動に一貫性がないのは、むしろ当たり前なのですね。
 私は、日本人が集団主義的ではないからといって、個人主義的であると申し上げているわけではありません。アメリカ人についても同様です。
 日本人であろうとアメリカ人であろうと、集団主義的な行動が利益になる時には集団主義的な行動を、また個人主義的な行動が利益になる時には個人主義的な行動を選択するのです。それは国民性や精神文化ではなく、あくまでも状況に応じて、つまりケースバイケースなのです。ただし、その選択が論理的に正しい、倫理的・良識的であるかどうかは、また別問題です。
 バイアスの話でいえば、日本人は集団主義的である、アメリカ人は個人主義的であるといった通説は「文化ステレオタイプ」の典型例です。
 文化ステレオタイプとは、イギリス人は紳士的である、ドイツ人は規律正しいなど、ある文化圏やカテゴリーに属する人たちは、総じて同じような内面性を備えているという固定観念です。
 文字通りステレオタイプですから、人々の心の中にすんなり入りやすく、だからこそ非常に危険なバイアスを招きやすい。文化が異なれば、習慣や価値観、行動が異なるのは当然なのですが、こうした違い、すなわち異質性を理由に、いじめたり、虐待したり、時には殺人すら正当化されたりします。
 たとえば、日米貿易摩擦の時に、日本の異質性や特殊性の根拠として、日本人イコール集団主義論が利用されました。ベトナム戦争でアメリカ軍は、兵士がベトナム人を殺すことにためらわないよう、ベトナム人は人間以下の存在であると教育しました。文化ステレオタイプは、このように洗脳に使われやすいのです。
 旧ユーゴスラビアの分裂時、民族浄化運動が起こり、一説には20万人が殺されました。実のところ、旧ユーゴスラビアの人々は、民族的には同じ南スラブ民族に属しており、言語的にはセルビア語も、クロアチア語も、ボスニア語も、方言程度の違いしかありません。ただし、宗教が違います。クロアチア人はカトリック、セルビア人は東方正教、ボシュニャク人はイスラム教です。
 同じ民族で、ほとんど同じような言語を使っていながら、宗教やそれに基づく価値観が違うというだけで、互いを異質視するプロパガンダが繰り広げられました。ついには、最悪の結果が招かれます。第二次世界大戦中には、クロアチア人はナチスと結託し、セルビア人を虐殺しました。旧ユーゴスラビアが分裂した時には、軍事力で頭一つ抜け出たセルビア人によって、クロアチア人やボシュニャク人の大量殺戮が起こります。
 歴史を遡れば、こうした文化ステレオタイプによって引き起こされた悲劇は、枚挙に暇がありません。現在、グローバル化が当たり前になり、異質な文化同士が接触する機会が増えている中、文化ステレオタイプにはよりいっそう警戒が必要です。
 少々横道に逸れますが、心理学の世界では、言語能力は女性のほうが高く、空間能力は男性のほうが高いという傾向が、さまざまな実験によって確認されています。ただし、個人差が極めて大きい。ですから、女性だから、男性だからと決め付けるのは大きな間違いです。こういうこともステレオタイプの弊害の一つです。

 こうしたバイアスに基づくステレオタイプが増幅・拡張していくのも、またバイアスによるものであり、こうした悪循環を断ち切る、歯止めをかける術はないのでしょうか。
 残念ながら、そのような魔法の杖はなく、文化ステレオタイプは偏った解釈であり、危険なものであることを理解してもらえるよう、辛抱強く繰り返し説明し、理解の輪を広げていく努力を重ねるほかないでしょう。
一筋縄ではいかないかもしれませんが、専門家に納得してもらうことが重要です。また、権力の持ち主や権威のある人の言葉は広まりやすいですから、インフルエンサーも無視できない存在です。

  日本の場合、不正行為はよく組織ぐるみで行われるといわれますが、これも状況の中で選択された行動なのですか。
  そうです。ただし、エンロンやワールドコムの粉飾決算など、アメリカでも組織ぐるみの犯罪は存在します。
 組織ぐるみとは、つまるところ、権力構造という「状況の産物」です。その行為は犯罪であり、発覚すれば刑務所に入れられるとわかっていても、経営陣や上司が喜ぶことを行う、上の人間には逆らってはならない、そうすればめぐりめぐって自分の利益になる、という理屈です。
 集団主義がいいのか悪いのかという二元論は無意味です。当然ながら、いい場合もあれば、悪い場合もある。実際、集団主義的、すなわち組織的あるいは集合的に行動することで大きな成果に結実することもあれば、かえって不利益を招く場合もあります。
 一般的な認識とは異なっていると思いますが、創造性に関する心理学の研究では、集団よりも個人で問題を解いたほうが高いパフォーマンスが得られることが何度も示されています。「三人寄れば文殊の知恵」といわれるように、みんなで協力したほうが効果的だと思われるかもしれませんが、必ずしもそうではない。
 いずれにしても、日本的経営の長所と信じられてきた集団主義の強制とそれによる個の抑圧は問題です。リーダーの皆さんは、集団として一つにまとめることに努めながら、他方では、個々人を尊重し、やる気や能力を引き出すように努めることが大切なのではないでしょうか。
 そのためには、状況を正しく見極め、個人主義と集団主義を使い分ける能力が重要です。結局のところ、どちらが適しているかは状況次第であり、リーダーには臨機応変で的確な判断力が求められます。


  1. ●聞き手|岩崎卓也(ダイヤモンドクォータリー編集部) ●構成・まとめ|奥田由意、岩崎卓也
  2. ●撮影|朝倉祐三子 ●イラスト|CloudyStock/Shutterstock.com