人類は、常に「新しさ」や「成長」を追求してきた。それが進歩であり、また進化であるといわれてきた。そしてビジネスの世界では、もっぱら「効率」が重視されてきた。たとえば、コストダウン、規模や量の拡大、スピード化、改善やイノベーションであり、また21世紀を前後して、デジタル化、可視化、自動化などが台頭してきた。

 もちろん悪ではない。ただし、その代償として、地球環境の破壊、人間性や社会関係資本(ソーシャルキャピタル)の希薄化、全体性(ホリスティック)やコミュニティシップなどの喪失が招かれた。幸いなことに、こうした失われたものを取り戻そう、回復させようという動きが、遅ればせながら世界各地で起こっている。

 そしてもう一つ、知らずしらずのうちに失われつつあり、デジタル時代だからこそ立ち止まって取り戻すべきものがある。そう、「深く考える」という思考のスタミナである。その必要性は、昔から言われ続けてきたことでもある。名経営者といわれた企業人たちの言葉を温(たず)ねてみよう。

「考えよ」(トーマス・ワトソン・シニア)
「事業成功の神髄は、と問われたならば、何ごとも軽率に着手しないことと答えます。着手するまでに十分考え、いわゆるバカの念押しをやってみることが大切です」(小林一三)
「一方はこれで十分だと考えるが、もう一方はまだ足りないかもしれないと考える。そうしたいわば紙一枚の差が、大きな成果の違いを生む」(松下幸之助)
「四六時中考える習慣をつけなさい」(安藤百福)
「何をやるにしても考えて考え抜く。それが私の一生である」(出光佐三)
「考えて、考えて、考え抜く」(小倉昌男)

 デジタル化や自動化が加速している現在、元AI研究者の川上浩司氏も、同じく「深く考える」「思考を深める」ことの重要性を訴える。いわく「こうした便利なツールを当たり前に使うようになったことで、人々の思考がパターン化・効率化され、浅い思考が習い性になってはいまいか、深く考えることはまさしく人間ならではの営みであり、他に代えがたい強みではないのか」。

 川上氏は現在、「不便益」という視点から、AIをはじめとするさまざまな人工システム、バリューエンジニアリング、インターフェースやコミュニケーションなどのあるべき姿について研究しており、ウェブベースでの研究者コミュニティ「不便益システム研究所」を主宰したり、一般公開講座「京大変人講座」で不便益をテーマとした講義を担当したりと、この概念の普及・啓蒙に努めている。

 川上氏によれば、この不便益を意識的に取り入れる中で、深い思考へと導かれていく可能性があるという。本インタビューでは、思考の効率化やパターン化をいったん保留して深い思考を心がける意義、また不便益の視点の必要性、不便益/不便害と便利益/便利害との相関性について説明を受けながら、デジタル・AI時代における「考えるスタミナ」について問い直す。

効率化や便利さが
「深く考える」力を衰えさせる

編集部(以下青文字):デジタル技術、特にAIによってますます楽になり、人間に残されるのは、創造性を活かしたり、社会性が求められたりする仕事であり、むしろそれは人間にとって幸せなことだ、という意見があります。

HIROSHI KAWAKAMI
京都大学情報学研究科情報学ビジネス実践講座特定教授。1987年京都大学工学部卒業、1989年同大学院工学研究科修士課程修了。同年岡山大学工学部助手、1998年京都大学情報学研究科助教授、2014年同大学デザイン学ユニット特定教授を経て、2019年より現職。工学博士。また、不便益システム研究所代表を務める。主な著作に、『不便から生まれるデザイン』(化学同人、2011年)、『不便益という発想:ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、不便をとり入れてみてはどうですか?』(インプレス、2017年)、『不便益』(近代科学社、2017年)、『京大式DEEP THINKING』(サンマーク出版、2017年)、『不便益のススメ』(岩波ジュニア新書、2019年)、また共著に『アーティファクトデザイン』(共立出版、2018年)、『京大変人講座』(三笠書房、2019年)がある。

川上(以下略):それほど単純ではないと思いますよ。むしろ眉に唾しています(笑)。

 人類の歴史をひも解くまでもなく、私たちは「もっと早く、もっと便利に」と効率を追求することで発展し、豊かさを得てきました。ですが、こうした早さや便利さを享受することで、なおざりにされつつあることがあります。そう「深く考える」という営みです。

 私はそもそも工学畑の出身です。若い頃は、すこぶる素直に「便利なものさえつくっていればいい」という工学の宗教を信じておりまして、しかも究極の便利さをもたらすかもしれないAIの研究者でした。

 コンピュータ科学を含めて工学の世界では、「評価関数」を設定しないと研究が進みません。たとえば、新幹線の先端の形状を決める際、空気抵抗の値を評価尺度の一つとして、その最小化を目指すわけですが、その値を出す関数を評価関数といいます。

 このケースは比較的簡単ですが、もっと複雑な工作物になると、どの範囲の数値を対象にした関数をつくるか、ということさえ問題になります。こうした一筋縄ではいかない場合でも、多くの工学者や科学者は、変化は直線的である、つまり「線形近似」(単純な一次関数に置き換えること)ができる部分を組み合わせて評価関数を設定しがちです。

 たとえばHOという物質は、温度によって水(液体)から水蒸気(気体)へ、あるいは氷(固体)へと変化します。いわゆる相転移です。この相転移を正しく理解するには、熱して液体の温度が一直線に上昇する過程だけではなく、固体や気体に変わる瞬間についても観察・測定しなければなりません。

 HOがこのように相転移を起こすことを知っているから、HOは線形で変化しないと納得できるわけですが、えてして私たちは、予想できない世界、知らない世界については、線形で変化していくと期待してしまう傾向があるのです。実際、工学の世界に限らず、皆さんの身近なところにも、こうした線形思考の産物がたくさんあるはずです。

 ご指摘のように、ビジネスの世界では、単純な時系列の予測にしろ、高等数学を用いたシミュレーションにしろ、また人材育成やキャリアプランニングにしろ、線形モデルになっています。

 こうした線形思考や線形モデルは、利用できる範囲をしっかり把握していれば、正確性や論理性が担保された、便利で効率的なツールであり、けっして悪ではありません。そもそも技術に罪はありません。実際、そのおかげで人類は進歩・進化してきました。

 もともとは動物の知能に注目するAI研究者であった私が申し上げたいのは、こうした便利なツールを使うことに限らず、一般に人々の思考をパターン化・効率化するという便利は、浅い思考を習い性にしてはいまいか、深く考えることはまさしく人間ならではの営みであり、他に代えがたい強みではないのか、ということです。

 たとえば、どこの組織にも「たいていの問いに即答できる」人がいて、「仕事ができる」「優秀な人だ」などと呼ばれます。さまざまな経験を重ねた老練の人物ならば、その答えは自問自答や試行錯誤を経た深い思考の産物かもしれません。しかし、多くの場合、「得点主義」や「スピード重視」「便利さの追求」によって選ばれたテンプレートである可能性が高いように思います。

 深く考えるとは、プロセスを省略せず、むしろ存分に踏み締め、その中で大小さまざまな発見を重ね、「自分なりの答え」を導き出すという知的営みです。ですから、「即答できることは優秀さの証」とか「あれこれ考えるのは時間の無駄」「ネットで調べればすぐわかる」といった理由で、深く考えることを省略してしまうのは、人間ならではの個性と強みを手放していると思えてなりません。その結果、本当の意味での「頭のよさ」からも遠ざかってしまっている。とても残念です。

 流行り言葉やテンプレートのような無味乾燥な言葉のやり取りから、共感とかひらめきとか、心を動かすものは生まれてきません。たしかに情報伝達には都合がいいでしょうが、知の創造には発展しにくいでしょう。

 ですから、「仕事が速い」「優秀だ」とよくいわれる人たちには、そうした評価を鵜呑みにして喜ぶのではなく、本当に「考え抜いたといえるのか」と内省する機会を増やすことをお勧めします。

 確たる信念や考えもなく、たとえば「あの本に書いてあった」「セミナーで聞いた」という理由で、多数の人たちに支持されている方向へと進んでしまう人が少なくありません。ですが、いずれも「自分らしさ」を放棄していることにほかなりません。

 私が専門としているデザインの分野では、ずいぶん前から「製品開発にはラピッド・プロトタイピングが重要」とさかんにいわれています。これを、あれこれ考えず、とにかくサクッと試作すればいい、と解釈する人がいますが、私は釈然としません。あれは、考えるために試作しているのだと思うのです。

 もしあなたが、昨今よくいわれる「すぐやる人になる」「考えなくてよいから行動に移すことが大切」といった行動主義に囚われているならば、考え抜くことをないがしろにして、自分を置いてきぼりにしていないか、省みてみるべきです。行動は、考えるために起こすものなのです。

 深い思考にたどり着くには、そのように意識し、実践することも重要ですが、「深く考えることで独自性を発揮しよう」という意思が必要なのですね。

 通常「考える」という行為は、目の前の事象や出来事は自分が承知している概念と同一のものである、と無意識のうちに認識・確認することです。つまり、目の前の事象や出来事を自分の知識に照らして答え合わせをしているわけです。

 私がイメージする「深く考える、思考を深めること」は、たとえば未知なるものと遭遇した時、それは何なのかを考えて、考えて、考え抜いた末に、まったく新しい概念を自分の中に形づくることにほかなりません。

 それが既知のものであっても、新たな面を探し求め、発見する道筋そのものが深い思考となって発想の転換や再発見が促されることもあるでしょう。また、一見関係がなさそうなこともあえて関連付けて考えてみることは、深い思考への入り口となるでしょう。

 ここ何年か、想像力(イマジネーション)や創造力(クリエイティビティ)、イノベーションといった非線形の思考が大切だといわれますが、既存を超えて「想定される水準以上の成果」を生み出すには、やはり深く考えるというプロセスを途中に挟んで、自分らしさを強みに転換してほしい。

思考の効率化、
言葉の合理化の弊害

 思考の効率化に関連して「言葉の合理化」についても言及され、その典型である数字の使い方に関して、「過度に数字に頼るのはよくない」と釘を刺されています。

「これからはもっと頑張ります」と宣言するより、「売上げを前年比1・5倍に伸ばします」と申告したほうが合理的で説得力が増し、聞く側にしても納得しやすいはずです。さらに「どのように」まで示されれば言うことなしでしょう。とはいえ、当人の意欲や本気度は前者のほうが伝わるかもしれません。

 ビジネスの世界はお金が絡み、お金は数字で表現されるので、「数字イコールわかりやすい、具体的である」というのが常識です。しかし、その常識を疑ってみたい。すると、数字は必ずしも万能ではなく、頼りすぎると落とし穴にはまることが少なからずあるのです。たとえば、おもてなしや愛情や感謝を数値化して、相手に見せたらどうでしょう。たいてい、数字という「余白のない説明」はムードぶち壊しです。

 ビジネスの場合、客観的な「尺度」──いわゆる評価基準と同義です──がつきまといます。ただし、尺度と一口に言っても、大小や多少、長短、比率(比例尺度)、温度や湿度、西暦や日付、知能指数(間隔尺度)など数値化できる尺度の一方、ランキングやアンケート(順序尺度)、氏名、性別や血液型、星座(名義尺度)などの尺度は数値化できません。

 数字で説明すると、客観性があり、それっぽく聞こえるのですが、実は簡単でお手軽な尺度を使って物事を測定しているだけであるとわきまえておくべきです。困ったことに、「科学的証拠イコール100%確かなもの」を装う人たちがいます。そして、こうした科学的証拠なるものを「思考なし」に信じてしまう人もいます。たとえばアンケート結果や広告比較など、無理やり数値化している「なんちゃって定量化」の類は、いざ「その数字は本当の姿を表しているのか」と突っ込むと、とたんに勢いが弱まるものです。

 しかし現実は、客観的(に見える)な数字を手っ取り早く示すために、たとえばグループインタビューを実施して「モニター100人のうち70人が当社の商品に満足しています」といった証拠集めに走ってしまう。

 そのうち、数字という確からしいフィクションに惑わされ、たとえば最終的には結果が伴わない「会議を通すため」だけのアイデアや企画が生み出されていく──。このことは、とりわけ数字を追いかけていくと陥りやすいので、くれぐれも注意が必要です。

 しかも、「主観的だがユニークな答え」を探して、そこから深く考えるという面倒臭い作業はすっかり脇に置かれてしまいます。しかし、こうした非効率で非合理な作業からこそ、価値ある何かを生み出すヒントやひらめきが得られやすいのです。

 かつてフォードモーターが、徹底的な市場調査と当時のマーケティング科学の粋を尽くして「エドセル」という自動車を開発しましたが、外的要因もあったとはいえ、歴史に残る大失敗に終わりました。

 数字もそうですが、専門用語や業界用語なども言葉の合理化の一例です。特に学術界ではその傾向が顕著です。想像にかたくないと思いますが、ある分野の研究発表会では使われる言葉が同じになりがちです。自分の主張を仲間に伝えるには、その中で流通している符丁を使うのが合理的で効率的だからです。

 しかし、こうした言葉の合理化を続けていると、ボキャブラリーが偏り、その数も種類も減っていきます。言葉は思考そのものですから、言葉が貧しくなれば思考も貧しくなる。

 効率や合理性よりも深い思考へと誘うコミュニケーション手段として、「わざ言語」について再評価されています。

 まず、わざ言語とは何か、理解を共有しておきましょう。一般に、名人や師範といわれる人たちに宿っている身体的な知識や感覚は万人に伝わるような表現が難しいため、比喩を用いて伝えられます。

 たとえば、弓道の世界では、弓に矢をつがう方法を教える場合、通常であれば「両腕を上げて、肩甲骨を前に出して」とでも言うところ、「大木を抱えるように」と表現します。また、舞踊でよくいわれる「舞い散る雪を拾うように扇を動かしなさい」とかもそうです。

 わざ言語では、完璧な再現性が求められるわけではないという点が重要です。そして、教える人と教わる人が互いに了解して、より具体的には、双方の間で共通する身体的な経験があって初めて成立する情報伝達手段であることを承知しておく必要があります。

 ですから、不便なコミュニケーション手段とはいえ、教わる側にすれば、独自に解釈する余地があり、創造性が広がる可能性が与えられます。それは、まさしく深く考える訓練でもあります。

*つづき(後編)はこちらです


  1. ●聞き手|岩崎卓也(ダイヤモンドクォータリー編集部) ●構成・まとめ|荻野進介、岩崎卓也
  2. ●撮影|大島拓也 ●イラスト|ネモト円筆