我々には、こんな常識がある。

  企業や個人のビジネスは、自由競争の下、政府などの統制や干渉を極力受けることなく、市場原理に委ねられるべきである。この考え方は、18世紀を生きた経済学者アダム・スミスによって広く知られることになり、現在も経済活動の基本原則である――。

  こうした考え方は、一般に「自由放任主義」と呼ばれ、人々がおのれの利己心に従って自由に経済活動を繰り広げることで、社会全体の富が増大すると同時に、スミスの『国富論』で述べられた「見えざる手」に導かれ、富は公正かつ効率的に配分され、社会の調和が実現されるというものだ。

  “laissez-faire”が「なすに任せる」という意味から、最近ではあまり聞かれなくなったが、経済活動をあるがままに放置せよ、翻って、企業は法に触れない限り、自由勝手に利益を追求すればよい、という都合のよい解釈もあった。

  アダム・スミス研究の第一人者である大阪大学教授の堂目卓生氏――著書『アダム・スミス』(中公新書)はサントリー学芸賞を受賞――は、この偉大な経済学者にまつわる常識やステレオタイプについて保留し、「スミスのイメージ、すなわち自由放任主義のイメージは真実の姿だろうか」と提起する。

  21世紀を迎えると、アダム・スミスを再発見・再評価する動きが芽生え、2008年のリーマンショックを機に、アカデミズムはもとより、産業界へと広がった。

  ホールフーズ・マーケットは全米で300強拠点を展開する自然食品の小売チェーン(2017年、アマゾン・ドットコムが買収)だが、創業者のジョン・マッキーはスミスの処女作『道徳感情論』に感化され、「コンシャス・キャピタリズム」(覚醒した資本主義)という考え方を打ち出した。

  これに呼応するかのように、信任資本主義、共同体資本主義、エシコノミー(道徳重視経済)など、類似の概念が同時多発的に提唱された。ハーバード大学のマーク・クレイマーとマイケル・ポーターが提唱したCSV(共通価値の創造)、SDGs(持続的開発目標)やESG(環境・社会・企業統治)といったムーブメントも、同じ文脈で語ることができる。

  急先鋒は、1998年にノーベル経済学賞を受賞したハーバード大学教授のアマルティア・センだろう。上梓されてから250年を経て『道徳感情論』が復刻された際、センは序文を寄せ、この最初の著作と次に書かれた『国富論』は相互補完的であるにもかかわらず、『国富論』で述べられた「自己利益の追求」だけが注目され、一人歩きし、ついには誤った解釈が横行してしまった、と苦言を呈する。そして、こうした解釈とは異なり、スミスは「共感」「正義」「徳」の必要性を説いており、むき出しの自己利益の追求をむしろ嫌悪していた、と指摘する。

  堂目氏も、同じく『道徳感情論』を再評価し、とりわけ共感に注目する。スミスは、行動の動機は感情にあると考え、共感が市場経済を機能させる一条件であると見る。また、富を生み出す行為には人と人をつなげる機能があり、共感はそれをより強化すると言う。実際、経済や企業活動のグローバル化のみならず、インターネットやSNSによるコミュニケーションのグローバル化ゆえに、共感の重要性はますます高まっている。

  本インタビューでは、『道徳感情論』のエッセンスを学びつつ、スミスにまつわる誤解を解いていく。そして、堂目氏の唱える「共感資本主義」を起点に、現在の事業活動や経営慣行を問い直し、これからの経済のあり方、企業の目指すべき方向について考える。

アダム・スミスにまつわる
間違った認識を正す

編集部(以下青文字):利益第一主義、株主主権主義の企業経営は、さまざまな場面で「異議申し立て」を受けています。残念ながら、こうした旧来の考え方に縛られている企業がいまなお大半ですが、先覚的なリーダーに恵まれた組織では、新時代の胎動を察知し、未来に向けて非連続な変革に取り組んでいます。こうした従来の価値観と新しい価値観が交差する中、アダム・スミスを再発見することで、次代の企業モデルを見出した人たちがいます。


TAKUO DOME
慶應義塾大学経済学部卒業後、京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。立命館大学経済学部助教授、大阪大学助教授を経て、2001年より大阪大学教授。著書として『古典経済学の模型分析』(有斐閣、1992年)、History of Economic Theory: A Critical Introduction, Edward Elgar Publishing, 1994、The Political Economy of Public Finance in Britain, 1767-1873, Routledge, 2004(2005年日経・経済図書文化賞受賞)、 『アダム・スミス』(中公新書、2008年/2008年サントリー学芸賞受賞)が、共著に『経済学』(日本経済新聞出版社、2007年)がある。2019年秋、紫綬褒章受章。

堂目(以下略):まずスミスにまつわる誤解を認識し、正しく理解することから始める必要があります。
  18世紀イギリスに生きた経済学者にして哲学者でもあったスミスは、経済学の始祖といわれています。彼は著書『国富論』の中で、競争を促進することで力強い経済成長を実現し、それによって豊かで強い国家が創出されると説いていますが、それゆえ「自由放任主義者」というイメージが、いまなお付きまとっています。

  誰でも知っているスミスの有名な言葉が「見えざる手」です。これは、利己心に基づく個人個人の利益追求行動を社会全体の利益へとつなげる「市場の価格調整メカニズム」と理解されてきました。同時に、見えざる手の働きを阻害するような法規制はすべて有害であり、取り払われるべきである、というのがスミスの主張だというのです。

  しかし、スミスはけっして自由放任主義者ではありません。文明が進歩し、人類が物質的に豊かになるのは、富に対する人間の野心によると考えていたのは確かですが、個人個人の利益追求が社会全体の利益につながる、と無条件に考えていたわけではありません。また、急進的な規制撤廃論者だったわけでもありません。そうした見方は、スミスの主張のある一面だけを切り出し、誇張しているにすぎません。では、スミスの真の姿はいかなるものか。

  スミスは、生涯において2つの書物しか上梓していません。その一つが有名な『国富論』であり、もう一つが『道徳感情論』です。前者の内容が経済学だとすれば、後者は倫理学でしょう。

 『国富論』の刊行が1776年であるのに対して、『道徳感情論』は1759年で、『国富論』より17年も前のことです。しかも、処女作である『道徳感情論』にスミスは何度も手を加えて改訂版を著し、最終版となった第6版が発行されたのは、彼が亡くなった年のことでした。スミスがいかにこの著作に思い入れがあったのかがうかがわれます。

  最近のスミス研究では、『道徳感情論』を『国富論』の思想的基盤と見なす考え方が主流になっており、私もその立場を取っています。実際『道徳感情論』には、後の『国富論』で展開される経済論の萌芽的な内容があちこちに散見され、これを読まずして、スミスの思想や主張を正しく理解することはできません。

『道徳感情論』のキーワード①
共感

  実のところ、多くのビジネスパーソンが『国富論』を知っていても、読んだことのある人は少数派でしょう。ましてや『道徳感情論』となると、その存在すら知らない人が大半だと思います。初学者のために解説をお願いします。

  スミスは、まず人間の「感情」に注目します。道徳が社会秩序の基盤であり、そこには人間の感情が大きく影響する。言うまでもなく、人間の感情は単一ではなく、喜び、怒り、悲しみ、哀れみなどさまざまであり、それらが作用し合うことによって社会秩序が形成されていく。スミスはそう考えました。

  では、この感情への共鳴、すなわち共感がどのように社会秩序につながっていくのか。スミスの思考をたどってみましょう。

  共感は同感と訳されることもありますが、スミスの思想を理解するうえで非常に重要なキーワードです。それは、他人の感情を自分の心に写し取り、それと同じ感情を引き起こそうとする心の働きといえます。

  共感は「他人への関心」から芽生えます。そもそも人間の本性には、「自分の利益を考える」だけでなく、「他人に関心を抱く」ことが備わっている。自分の利害と直接関係しなくても、他人の運不運に興味を抱き、それを観察・認識することで共感が湧き起こる。

  共感を湧き起こす次のステップが、もしも自分がその人と同じ境遇に置かれたならば、どのような感情を味わうだろうか、どのように振る舞うだろうか、という「想像」です。そして、実際に観察された他人の感情や行為と、その観察から想像される自分の感情や行為とを比較し、それらが一致した場合には、その人の感情や行為を適切なものとして是認します。一致しない場合には、不適切なものとして否認します。以上が、共感です。

  まず共感ありきである、と。脳神経学者のアントニオ・ダマシオによると、感情の働きがあるからこそ理性的な判断や効果的な意思決定を下せるのだそうです。スミスはまさしく慧眼の持ち主でしたが、共感は、利他と一緒に語られることが少なくありません。

  利他は、みずからを犠牲にして他人のために尽くすことを意味します。時折、スミスは『道徳感情論』で利他の大切さを訴えたといわれることがありますが、そうではありません。共感は、相手のために自分を犠牲にすることを意味しません。「他人のため」という利他と「自分のため」という利己を一致させる心の働きが共感なのです。

 共感は、脳科学の分野でも研究されています。たとえば、他人の行動を自分の行動であるかのように感じ取る「ミラーニューロン」という神経細胞が発見されたり、他人の行動からその人の心中を推測する「セオリー・オブ・マインド」という能力があることが認められたりしています。

『道徳感情論』のキーワード②
公平な観察者

 スミスは、共感から道徳的判断がどのように生まれると説明したのですか。

 他人の感情や振る舞いを観察し、判断することを繰り返すうち、相手もまた、こちらの感情や振る舞いに関心を抱き、同じように是認したり、否認したりしていることに気づきます。そして、自分の感情や振る舞いが他人の目にはどのように映っているのかを知りたくなり、そこからさらに発展して「他人から是認されたい、否認されたくない」と願うようになります。

 スミスによれば、こうした過程の中で、我々の胸中には「公平な観察者」が生まれます。それは、極めて公平かつ公正な〝人物”で、自分を含めたすべての人々との利害関係を免れた立場から判断する存在です。そして我々は、胸中の公平な観察者から常に見張られていることをいつも意識しています。

 スミスは、世間による評判を、裁判に例えて「第1審」、各人の胸中にある公平な観察者による判断を「第2審」と呼んでいます。我々は、自分の考え方や振る舞いについて、まず世間という第1審の判決を仰ぎますが、同時に、特にそれに違和感や不条理を覚えた場合、第2審へと持ち込み、より確かな判決を求めます。

『道徳感情論』のキーワード③
賢人と弱い人

 では、この第1審と第2審のどちらを優先すべきでしょうか。スミスは、当人が「賢人」である場合は第2審に従い、「弱い人」の場合は第1審を重視すると考えました。

 自分の振る舞いが、公平な観察者からすれば、およそ称賛に値しないにもかかわらず、世間が称賛した場合、賢人は喜んだりしませんが、弱い人は舞い上がって喜びます。逆に、公平な観察者の目には称賛に値する振る舞いでも、世間から称賛を得られない場合、賢人はそれを残念だとは思いません。他方、弱い人は悔しがることでしょう。

 スミスによれば、公平な観察者の判断に従う人が賢人であり、世間の評価を気にする人は弱い人なのです。ただし現実には、我々は、程度の違いこそあれ、賢人の部分と弱い人の部分の両方を持ち合わせています。ある時は良心に従って行動するものの、ある時は世間の評判を気にして浮き足立ってしまう。これが、スミスがとらえた普通の人間の姿です。

『道徳感情論』のキーワード④
一般的諸規則

 我々は、何を拠り所にして道徳を判断するのでしょう。

 我々は、賢明さによって公平な観察者が常に肯定する行動を選ぶよう、自己規制を働かせます。逆に、弱さゆえに公平な観察者を無視しようとするかもしれません。それは、もう一人の自分である胸中の公平な観察者を欺くことになりますから、言い換えれば自己欺瞞です。

 一方は自己規制、片方は自己欺瞞。この葛藤において、自己規制を有利に働かせるため、その人の中に「一般的諸規則」というものが形成されます。

 それは、自分の主義や信条、価値観といった、いわゆるマイルールの意味でしょうか。

 そのような個別性の高いものではなく、もっと普遍的でシンプルなものです。具体的には、次の2つです。

・公平な観察者が非難に値すると判断する行為は回避されなければならない。
・公平な観察者が称賛に値すると判断する行為は推進しなければならない。

 第1は「他人の生命や身体、財産、名誉などを傷つける行為」を戒める正義のルールであり、第2は「他人の利益を増進する行為」を促す慈恵のルールです。これら2つによって、社会秩序は成り立っています。こうしたルールが広く浸透している社会は、人々にとって安全で住みやすい社会と考えられます。

 通常、この一般的諸規則は遵守されなければならないと、誰もが感覚的に理解しています。スミスは、それを「義務の感覚」と言い、「人間生活において最大の重要性を持つ原理」だと考えます。そして、本性の一つである利己心や自己愛が度を過ぎることのないよう、この義務の感覚を働かせなければならないと説きます。

 一般的諸規則も義務の感覚も、弱い人のためのものですね。

 そこがスミスの興味深いところで、人間の弱さを否定することなく、不可避のものとして受け止めています。さらには、経済を発展させる原動力は人々の中にある弱さなのだ、とも主張します。

 弱い人は、生きていくことができる最低水準の富を持っていても、もっと多くの富を獲得し、世間の称賛を集め、より豊かな人生を送りたいと考えます。こうした欲望は、自己規制ではなく虚栄から生まれます。スミスによれば、この虚栄があるからこそ、富や地位への野心が芽生えるというのです。

 無人島で孤独に生活していたらけっして抱くことのない野心を原動力として、人間は勤勉に働いたり、みずからの技能や能力を磨いたり、支出を管理したりするようになる。こうした人類の努力によって、土地の開墾や海洋開発が進み、道路が築かれ、都市が建設されていく。生活必需品だけでなく奢侈品も生産されるようになり、科学技術も発達していく。これらが相まって経済が発展し、より多くの人を養うことができる。その結果、貧困がなくなり、人々の健康が増進し、寿命が伸び、豊かで快適な文明社会が形成される。人々は社会の発展に寄与したいという崇高な思いに突き動かされているわけではなく、自分のために富と地位を求めたにすぎない。にもかかわらず、そうした利益の追求によって、結果的に社会の繁栄が導かれる――。

 これが「見えざる手」の意味するところだと思います。

*つづき(後編)はこちらです