「夫」を「主人」に変えてしまう感覚

 他にない視点の評としては 「Netflix「新聞記者」をジェンダーの視点で観ると・・・半沢直樹と変わらないのでは。日本のドラマの限界と性差別が平常運転の辛さ。」(北原みのり)がある。

 この中では、ドラマに登場する女性の描かれ方が古いと指摘。また、赤木雅子さんは俊夫さんを「夫」と呼んでいたのに、ネトフリ版の中では「主人」に変えられていることに疑問を呈している。

 「そんな細かいことを。気にしすぎだ」と思う人もいるかもしれないが、そうだろうか。

 週刊文春の報道によれば、赤木雅子さんがプロデューサーに不信感を抱いた理由の一つは、「新聞記者役は米倉君かなあ」と、女優を「君付け」する態度だったという。

 また、赤木雅子さんを主人公とした漫画『ふぁんばりょんかぁ、マサコちゃん』が、1月24日発売の「ビッグコミックスピリッツ」で連載が始まったが、この中では、雅子さんは「夫は職場で不当なことをさせられて自ら亡くなりました」など、「主人呼び」をしていない(ちなみに、告発スクープを打ったのと同じ号で週刊文春は、この漫画を3ページかけて特集している)。細部ではあるが気になる点である。

 ちなみに、映画版「新聞記者」についても、女性の描かれ方についてこれと似た指摘が「昭和オッサン映画?!『新聞記者』に見る日本の「リベラル」の闇」(林香里/WEB世界)にあった。

 映画版公開時に指摘されたジェンダー観の古臭さは、ネトフリ版でも繰り返された。

 ここまでさまざまな評価を見てきたが、映画版にしろネトフリ版にしろ、『新聞記者』は、政権不支持であれば絶賛、支持であれば批判・無視しなければならないような空気を感じるのは考えすぎだろうか。

 そのような議論を生む作品であること自体が評価の一つとなるのかもしれないとはいえ、個人の感想はのびのびと言いたいものだ。