日銀の黒田東彦前総裁が講演で「日本の家計の値上げ許容度も高まってきている」と発言してから1年がたった。この発言の根拠となった調査の続きを公開し、消費者の値上げ耐性を分析。さらに、物価と賃金を持続的に上昇させるための政策について論じる。(東京大学大学院経済学研究科教授 渡辺 努)
消費者は「値上げ」から逃げなくなった
消費者のインフレ予想が上昇すると、現実に何が起こるのか。変化が生じるのは、消費者の購買姿勢だ。
物価は据え置きと予想する消費者は、ある店で値上げに遭遇すると、買うのをやめて他店に「逃げる」。なぜなら、そもそも「物価は据え置き」というのが頭にあるので、値上げされている事実自体が異常なことであり、他店ではきっと元の安い値段で売っているに違いないと考えるからだ。
一方、「物価は上がる」と予想する消費者は、ある店で値上げに遭遇しても逃げない。なぜなら、値上げは当たり前のことであり、他店でもきっと値上げされているだろう、と考えるからだ。
日本の消費者は、21年8月の調査までは、一貫して「逃げる(=別の店に行く)」派で、米欧の消費者と対照的だった(下の図を参照)。これは日本の消費者のインフレ予想が低かったからだ。
ところが22年5月の調査では、「逃げる」は少数派になり、「逃げない(=同じ店で同じ商品を買い続ける)」が多数派と逆転が生じた。インフレ予想がこの時期に上昇したからだ。
消費者が逃げなくなった事実を企業は敏感に察知し、コスト上昇分の価格転嫁を積極化させた。これが、国内でこの1年に生じた物価上昇の基本的な流れだ。つまり、海外由来の外生的なショックが、消費者のインフレ予想の上昇を通じて、国内価格の内生的な上昇へと「増幅」されたということだ。
さて、目下の注目点は、この傾向が定着するかどうかだ。右端の最近の結果(23年3月調査)を見る限り、「逃げない」が多数派を維持しており、米欧の消費者と差はない。
なお、上の図にある22年5月の調査結果は、22年6月6日に行われた日本銀行の黒田東彦前総裁の講演で引用された。「日本の家計の値上げ許容度も高まってきている」と述べた黒田前総裁の発言は多くの批判を浴び、最終的には撤回を余儀なくされた。
しかし今から振り返ると、当時、日本の消費者の値上げ耐性(総裁の言葉では値上げ「許容度」)に変化が生じつつあったのは事実であり、その後の国内価格の上昇を加速させたことも確かだ。「許容」という言葉の適否に関心が集中するあまり、経済の実態認識という本題がおろそかになってしまったのは残念だ。