ジャンプするビジネスパーソンPhoto:PIXTA

日本銀行の黒田東彦前総裁は2015年6月、ピーターパンの「飛べるかどうかを疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう」を引用した。黒田前総裁が飛ぼうとしても成し得なかった「賃金と物価の好循環」は、なぜ今になって実現しつつあるのか。その原動力から足元の物価の動向までを分析すると、さらなる好循環を左右するのは、「ベアなし」の古い認識から“飛ぶ”ためのナラティブ(物語)であると分かる。(東京大学大学院経済学研究科教授 渡辺 努)

賃金・物価のスパイラルは望ましくない現象?
デフレの日本では「好循環」に化ける

 物価が上がれば労働組合は賃上げを要求せざるを得ないだろう。すると企業の人件費が上がるので、企業はそれを価格に転嫁せざるを得ないだろう。この循環が進めば日本はデフレから脱却できるのではないか。日本で物価上昇が始まった2022年の春頃、筆者はそのような流れを考えていた。

 この原型は「賃金・物価スパイラル」と呼ばれるものだ。スパイラル(悪循環)という言葉が示すように、望ましくない現象として語られてきた。

 実際、21年から22年にかけての米欧では、このメカニズムによってインフレが途方もなく高まるのではないかという懸念があった。

 一方、日本はインフレ率が低過ぎるという特殊な状況にあったので、この“スパイラル”を起こすことは、むしろ好ましい効果を持つのではないかというのが筆者の立場だった。

 22年の秋にこの論を整理して出版したのが『世界インフレの謎』(講談社)だ。しかし当時は支持する人が多くなかった。

 それから約1年半が経過した今、「賃金と物価の好循環」が現実に起きている。もちろん懐疑的な見方は今なお少なくなく、一過性の現象に過ぎないという指摘も根強い。実際、さまざまなデータを詳しく点検すると、好循環が持続するかどうかは不透明というのが正直なところだ。

 では、どうすればこの循環を定着させることができるのか。それを考える上で最も近道なのは、そもそもなぜ好循環がここまで進んだのかを正確に理解することだ。