「OMAKASE」を頼むことが一つのステータスに

「上等の食材がマレーシアに入るようになりましたよ」――クアラルンプールの高級日本料理店で包丁を握る田中敏行さんはこう語る。マレーシアに8年、日本食を取り巻く環境の変化を、コロナ禍以前からつぶさに見つめてきた。

 今マレーシアで起こっているのは、中国が日本の水産物を禁輸することで進む新たなサプライチェーンの構築だ。水産物のみならず、加工食品や調味料など、それに付随する日本の食の産業の南下が始まり、現地では、さまざまなイベントやプロモーション活動が行われている。

 振り返れば、20年のコロナ禍で、マレーシアも人々の行動が大きく制限された。飲食業界も苦戦が続いたが、一方で別の動きも見られた。地元の富裕層にとって、習慣化していた海外渡航ができなくなった分、その予算を「食」に投じるようになったのである。

「コロナを前後して『おまかせコース』を提供する高級店が増えました」と田中さんは話す。

「おまかせ」は、すし屋用語の一つだが、東アジアや東南アジアでは、高級志向の高まりを受け、「OMAKASE」を頼むことが一つのステータスになった。クアラルンプールの高級日本食を扱う店でも、キャビアやウニ、金粉でトッピングしたぜいたくな日本食が振る舞われるようになった。

 コロナ禍がもたらした“新市場”は予期せぬ出来事でもあったが、さらに「食のサプライチェーンの南下」も予期せぬ展開だった。中国による日本産水産物の禁輸が、回り回ってマレーシアの高級日本食市場に“福音”をもたらしているという側面もあるのだ。

 ちなみに、マレーシアに強いシフトがあることについて、隣国タイの高級すし割烹の店主は「首都バンコクではすでに日本料理店が飽和となっているためではないか」とコメントしている。

これまでマレーシアは中国に買い負けていた

 中国による日本産水産物の禁輸は、確かに日本の一部の水産業界に痛手を与えた。しかし、別の角度から見ると、「功罪」の「功」の部分も浮き彫りになる。田中さんはこう語る。

「今までマレーシアに“いい食材”が入りにくかったのは、中国に買い負けていたからでした。10年ほど前から、中国の業者が『いくらでも構わないから』と言って買い付けていったのが、日本産の水産物でした。その結果、仕入れ値が上昇してしまい、日本産水産物は手に入りにくい食材になってしまったのです」

 マグロ一尾まるごと欲しい、いくらでもいい、一番いいのを譲ってくれ…、こうした中国の業者の求めに応じ、高級食材は中国に流れ、日本は競り負けるという一面が潜在していた。ノドグロや金目鯛なども、今では日本国民の台所からはすっかり遠のいてしまっている。

 田中さんによると、日本の魚河岸で競りが行われると「最もいい魚介類はまず香港に行った」と言う。日本産の水産物は、香港の食の高級市場にがっちりと組み込まれていたというわけだ。しかし、香港も「海洋放出」を機に日本の10都県からの水産物の輸入禁止措置を講じている。

 その影響は香港の消費者にとっても小さくはないはずだが、田中さんは「今では、中国の地元で取れるいい魚を食べているんです」と語る。