競輪写真はイメージです Photo:PIXTA

ギャンブル経験は、学生時代にたしなんだ麻雀くらい。社会に出てからは、年末に宝くじを買う程度で、勝負事とは遠い世界でコツコツ生きてきた中高年は多かろう。だが、その人生にすこしだけいろどりを欲しくはないか。しかもそれは、ちょっとだけインテリ向きの娯楽なのだ。※本稿は、藤木TDC『はじめて行く公営ギャンブル――地方競馬、競輪、競艇、オートレース入門』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

気分や体調でブレる「人間」に
賭けるからこそ面白い

 公営ギャンブルが魅力的なのは、賭ける対象が人間だからです。

 厳密にはギャンブルではありませんが、パチンコやパチスロは相手が機械です。パチンコの釘だとか、パチスロのROMだとか、人間の技巧による手加減が加わる要素はあるにせよ、機械はいったん稼働を始めるとインプットされたプログラムを画一的に動かすだけで、勝ち負けは数学的確率の中で決まります。

 ところが人間は違います。人間は一日の中で気分や体調の善し悪しがあり、環境の変化や時間で、その感覚は常に微妙に変動します。また周囲の人間との関係があり、経済的事情があります。直前に口にした飲物が美味しいか不味いかだけでも、その後の行動に甚大な影響が現れたりします。

 ことに競輪はそうしたうつろいやすい人間が自力で自転車を漕いで順位を競う競技です。 選手の気分や体力の一瞬一瞬の変化が如実にレース結果に反映されます。当然それによって、着順の入れ替わりが生じるわけです。

 競艇やオートレースは、エンジン付きの乗り物を人間が操縦する競技です。しかし、エンジンなどの整備を行うのは人間で、レースの中の挺やマシンの操縦も人間です。競馬も馬が勝手に走っているわけではなく、調教師という人間が訓練した馬を、騎手という人間が乗って操縦し順位を争います。すべてが競輪と同じように、人間を理解しない限り、レースの結果を予想できないのです。

 この「人間」という要素を分かっていないと公営ギャンブルの理解はできません。そして人間の理解ほど難しく、面白いものはありません。

説明も種明かしもしてもらえない
「運」と「ツキ」が作り出す人間ドラマ

 本記事をお読みの方には読書が趣味の方も少なくないでしょう。読書の醍醐味、特に小説、文学作品にふれる経験は人間という存在の理解を除いて語ることはできません。

 小説の数だけ描かれる人間がいて、そこに今まで理解できなかった新たな人間の内面が描かれて我々に驚きや感動や恐怖や不条理を教えてくれます。描かれる人間像が理解不能なものであっても、そこにリアリティを感じさせるのが優れた文学作品です。

 ただ、小説というフィクションの中に生きる人間は、作者によって因果関係を説明され、種明かしもあり、そして我々は実生活とは違う虚構世界として楽しみ、許すのかもしれません。

 同じように人間のドラマが公営ギャンブルにはあります。人間がする競技だからこそ、そこに驚きや感動や不条理があるわけです。そして結果についての種明かしはありません。それはレースを予想した人間が自分で解釈するしかないのです。