アップルを創業したスティーブ・ジョブズが、徹底した現場主義を貫き、製品開発の現場に自らを置き続けたことはよく知られています。
日本の経営者の多くも、折に触れて現場の大切さを語ってきました。例えば、松下幸之助や本田宗一郎は「現場の人」であり続けました。京セラの稲盛和夫名誉会長はその著書で、「現場で汗をかかないと何も身につかない」と述べています。この言葉を体現するのが、日産自動車創業者の鮎川義介の生きざまです。
鮎川義介
国立国会図書館ウェブサイトより
義介は1888(明治13)年、山口県に生まれました。
母親は明治の元勲・井上馨の姪に当たる人です。少年時代に「物を貰う身より、やる身のほうが幸福と言うのは真理だ。願わくは、自分は将来、金持ちになって、困っている人を助けてやろう」と心に誓います。長じて井上邸で書生をしながら、東京帝国大学工科大学機械科に学びました。
大学卒業後、大叔父が勧める三井財閥入りを断った義介は、学歴や井上の縁戚であることを隠し、芝浦製作所(現東芝)に見習工として入社しました。「現場を知りたいので、一から出発したほうが良い」と考えた末の選択でした。義介は文字通り、現場で汗水流して働き、休日には弁当を携えて、各地の工場を見学して回ったそうです。
2年がたち、工業の国産化が急務と痛感した義介は、渡米を決意しました。機械製造の基礎となる鋳物の最新技術を学ぶためです。鋳鉄に熱処理を加えて強度を増す当時の最新技術、可鍛鋳鉄を扱う会社を片端から巡り歩き、ようやく週給5ドルの見習工の職を得ました。屈強な大男たちに交じって、鋳物の湯、つまり熱溶解した鉄を運び、やけどに耐え、重労働を重ねて2年間、鋳物修業に励んだのです。
そして1910(明治43)年、29歳の義介は、戸畑鋳物株式会社(現日立金属の前身)を創業しました。その後、次々に会社を起こし、28(昭和3)年には持ち株会社である日本産業株式会社を設立。日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日本水産などを傘下に収める日産コンツェルンを築きました。
日立、日産グループの土台を一代でつくり上げた義介がこだわり続けた「現場主義」とは、自ら現場に身を置き、現場から学び、現場を知ることに他なりません。大名行列を組んで練り歩くような、形だけの現場主義とは、まったく異なるものでした。
1971年生まれ。作家
(株)家計の総合相談センター顧問
94年立教大学経済学部経済学科卒業。
大手銀行、証券会社等を経て2000年に独立。
人材育成コンサルタントとして活躍。
12年、処女小説『ザ・ロスチャイルド』で、
第4回城山三郎経済小説大賞を受賞。