これほど誤解されている人もいない
アベノミクスの原型、高橋是清

 12月の総選挙は、アベノミクスの是非を問うものになった。アベノミクスとこれまでの政府の政策との最も大きな違いは、デフレからの脱却のために思い切った金融政策を断行したことである。

 デフレからの脱却といえば、厳しいデフレから脱却し経済を活性化させた戦前の高橋是清が思い浮かぶが、高橋財政と言われるその政策の本質も、思い切った金融政策であった。

 筆者は長年にわたり、戦前の経済財政政策を研究してきたが、アベノミクスの是非が問われるようになった今日、当時の高橋是清の政策運営から学ぶべきものが何かについて、改めて整理してみることとしたい。

 最初に、ごく簡単に高橋財政が登場した頃の時代背景を振り返っておこう。当時の日本は、昭和5年(1930年)に井上準之助蔵相が実施した旧平価(日本経済の実力以上の円高水準)による金解禁で、不況のどん底にあった。そんな中で、昭和6年(1931年)には満州事変が起こり、世を挙げて軍事最優先になっていった。

 つい10年ほど前の加藤友三郎内閣(1922年-23年)においては、その前の高橋是清内閣の緊縮財政路線を引き継いだ大軍縮が行われ、「電車に乗るのにも軍服では気がひける」といわれていた状況だったのが、様変わりしていた。そこで、景気回復と軍事予算抑制による健全財政への復帰という課題を背負って登場したのが、このときの高橋是清であった。

 はじめに言うと、高橋是清くらい誤解されている人も少ない。その最たる誤解が、高橋は経済成長最優先の積極財政論者だったというものである。経済成長最優先だったというのはその通りであるが、そのために高橋が何よりも重要と思っていたのは、効率的な金融制度の確立であった。そして、効率的な金融制度を守るためには健全な財政基盤が必要と考える健全財政論者だった。ただ、時に応じて臨機応変の積極財政も断行したのである。

 高橋が健全財政論者だったことは、明治44年(1911年)6月に高橋是清が日銀総裁になったときに政府に提出した意見書を見れば、明らかである。同意見書で高橋は、「歳出ノ増加ハ断然之ヲ避クル」として、日本銀行総裁の立場から健全財政を求めていた。