江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?
ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
『三流の維新 一流の江戸』が話題の著者に、「ペリーとバードの正体」を聞いた。
ペリーとバードは何者か?
作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など
混浴や裸体について多少付言しておくと、庶民の男女混浴を強く批判して世界に広報したのは、かのペリーである。
下田で混浴を見聞したペリーは、これを指して日本人の道徳性の欠如、堕落と断定した。
『東洋紀行』で知られるクライトナーも、公衆道徳の欠如であると強く非難した。
一方で、駐日スイス領事ルドルフ・リンダウになると見方が異なる。非難を急ぎ過ぎる危険性を説き、
「育てられてきた社会の約束を何一つ犯していない個人を、恥知らず者呼ばわりすべきではない」
と主張する(『スイス領事の見た幕末日本』新人物往来社)。
また、英国女性イザベラ・バードは明治十一(1878)年に来日し、三ヵ月に亘って東北、北海道を旅して貧しい農村風景を『日本奥地紀行』として著したことで知られるが、やはり農婦や車夫の半裸姿に驚き、戸惑っている。
しかし、彼女は、そういう庶民の勤勉さや礼儀正しさも同時に正しく観察している。
つまるところ、彼ら西洋人に文明的優越感があり、それに由来する余裕ともいうべき心理や所謂“上から目線”ともいうべき見方、態度が共通して存在したことは紛れもないが、ペリーとバードの違いは普遍的な知性の差であるとみることもできるだろう。
改めて振り返ると、薩摩長州は早くからイギリスへ秘密留学生を送り、密輸入というかたちでイギリスから武器の支援を受けて幕府を倒すことに成功した。薩摩に至っては、伝統的に日本第一の蘭癖(らんぺき、西洋かぶれ)藩であった。
そういう彼らが、天皇権威を利用するために“方便”として「尊皇攘夷」を声高に喚きながら、事が成就するや否や一転して、日本語廃止を主張するほど、或は混血による人種改造を唱えるほど西洋に憧れ、万事西洋化に狂奔したことは決して不思議なことではないのである。
そして、前に触れた通り、彼らは武器の優劣=軍事力の優劣、即ち、工業力のみで西洋の優位を認め、工業力で劣る自らを「非文明」と位置づけ、非文明の民族の風俗は野蛮、野習であると断じて恥じたのである。
当然、このことが前時代=江戸期を全否定することに繋がったことはいうまでもない。
多くの学者、研究者が、一連の文明開化策は不平等条約の撤廃を意識して文明国家として世界に認められることを目指して、明確な目的意識を以て展開されたものであったと、今日でもまだ説いているが、これこそ官軍史観による後付け史観の典型である。
私自身が、このような歴史教育を受けて育った一人である。
曰く、「好き好んで鹿鳴館(ろくめいかん)で踊っていたわけではない」と。
敢えていうが、彼らは好き好んで踊っていたのだ。
ここまで述べてきた文明開化の正体が、そのことを正直に示している。
不平等条約の改定に対する新政府中枢の態度がどういうものであったかは、岩倉使節団の成立過程とその顛末(てんまつ)を具(つぶさ)にみれば明白である。
開化主義者に条約改定に対する意識が全くなかったわけではないが、すべては条約改定のためにというような悲壮な思いで西洋化に邁進したなどということはなかったことを申し添えておきたい。