自立自給の持続可能な村づくりをコツコツと進めてきた福島県飯舘村。いまでは、村のほとんどが福島第一原発から30km圏の外に位置しながら、土壌の放射線量の高さから「計画的避難区域」に指定された村として有名になってしまった。事故発生から独自の放射能汚染チームを結成しての現地入り、そして国や県の不可解な対応を、震災前から村づくり支援に関わってきた環境ジャーナリストが報告する。(文/環境ジャーナリスト、日本大学生物資源科学部非常勤講師 小澤祥司)
超巨大地震と大津波
3月11日午後、私は関西から東京に戻る新幹線のぞみ号の車上にいた。そろそろ岐阜羽島駅に差しかかろうかという時、列車は緊急停車した。無線LANの使える車両だったたため、パソコンを開きネットにつなぐと、ツイッターのタイムラインは「揺れた」、「大きい」のつぶやきであふれていた。
震源は東北沖、メディアのサイトを含め続々入る情報は断片的なものだったが、ただならぬ事態であることは伝わってきた。阪神淡路を超える大震災になると直感すると同時に、悪い予感が頭をよぎった。震源地が海なら大津波が押し寄せる。東北から茨城北部の太平洋岸は、北から東通、女川、福島第一・第二、東海第二と15基もの原発がたち並ぶ。それらが津波に飲みこまれたらどうなるのか。
結局5時間缶詰になり、のぞみ号は夜10時半ごろようやく新横浜までたどり着いた。そのまま待合室で大型テレビに映し出される衝撃的な映像を見ながら、一睡もできずに夜を明かしたのだった。
地震の被害は最小限だったが
福島第一原発の北西30~45kmに位置する福島県飯舘村は、11日の地震で大きな揺れに襲われたものの、幸い被害は小さくてすんだ。しかし、隣接する相馬市や南相馬市は地震と津波により甚大な被害を受けていた。11日から12日にかけて、村役場は両市からの避難民の受け入れにてんてこ舞いだった。人口6000人余りの村に、一時1300人もの避難民が村内の公民館や小中学校などに滞在していた。