和食も楽しめる。本格のフレンチも味わえて、ワインストックは常時100本余り。それが蕎麦屋というから驚きだ。連載第7回はそんな異色の蕎麦屋、恵比寿「丁未 坂」を紹介したい。落ち着いた大人のための空間で、唯一無二のコース料理は極上のもてなしになるだろう。
100店以上の蕎麦屋を巡り、出会った本当の蕎麦
“蕎麦の香りが鼻を抜ける“感覚を初めて味わった
平成8年の頃、蕎麦の特集本がブックセンターの店頭に並び、その本をガイドにして蕎麦好きが店を訪ね歩いた。スポットライトを浴びた店には客が並び、店に入るのに2時間待った、などと今から考えると信じられないような話がいくつもあった。ちょうど、第二期手打ち蕎麦屋ブームだった。
恵比寿「丁未(ひのとひつじ)・坂」の亭主、坂宜則さんは、その頃、全国の蕎麦屋を訪ねて回る旅を続けていた。まだ蕎麦職人になる前のことだ。車で回遊すること2年間、旅はいよいよ終盤を迎えようとしていた。訪ねた蕎麦屋は、とうに100店を超えていた。
“蕎麦の香りが鼻を抜ける”――。蕎麦好きが言う、その感覚が100店を回ってもまだない。“自分は鈍感なのだろうか”、そのことが腹立たしかった。
この日は群馬の箕郷に来ていた。その蕎麦屋までは地元の人でも車でないと来られないような不便な場所にあった。
門構えはいたって平凡なその店の屋号は「せきざわ」※1。蕎麦本の評価は最高点の三つ星だったが、これまで沢山の蕎麦屋を訪ね歩いてきた坂さんは、それほど期待もしていなかったという。
しかし、蕎麦が目の前に運ばれてきた時、坂さんはこれまでにない感覚に一瞬戸惑った。
蕎麦の匂いが箸を持つ前に彼の顔を包んだ。蕎麦を2本ほどつまんだが、口に含んでもその香りは消えない。噛むのがもったいないように感じ、まるでワインの試飲のように暫くほぐほぐと口に含ませた。蕎麦の香りが口中はもちろん、鼻腔にも喉にも押し寄せてきたところで噛みしだいた。
「初めて本当の蕎麦に出会ったような気がしました。蕎麦行脚で自分の味覚感性は人に劣っていないと確認できました」――、坂さんが蕎麦の香りを喉で感じた瞬間だった。
※1 せきざわ:かつて群馬・箕郷町で名店といわれた「せきざわ」は、2005年の12月に長野県の小布施町に移店した。長野県栄村にある自家栽培の蕎麦畑と隣接したところで営業したいというのが理由だった。現在でも開店前には行列ができるくらいで、人気は変わらず、観光名所的な店になっている。