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作家であり、金融評論家、社会評論家と多彩な顔を持つ橘玲氏が自身の集大成ともいえる書籍『幸福の「資本」論』を発刊。よく語られるものの、実は非常にあいまいな概念だった「幸福な人生」について、“3つの資本”をキーとして定義づけ、「今の日本でいかに幸福に生きていくか?」を追求していく連載。今回は「日本語と日本人の幸福の関係」について考える。

日本語に混乱する日本人

「個人」と「間人」という発想は社会学者・浜口恵俊(えしゅん)氏が1980年代に提唱したもので、個人主義の西欧と間人主義の日本を対比し、日本の特殊性を精力的に論じました(『間人主義の社会 日本』東洋経済新報社)。

「個人」は英語でindividual manで、その原義は「分割できない者」です。これは近代社会が、「普遍的な人権を持つ市民」という分割不可能な単位を基礎に成立していることによく対応しています。それに対して「間人」は英語でcontextual manの訳語があてられており、これは関係性(コンテキスト)に埋め込まれていることをよく表わしています。個人とは「かけがえのない自分」で、間人とは「共同体のなかの自分」なのです。

 日本社会が複雑なコンテキストで成り立っていることは、たとえばサッカーのJリーグの審判の「日本語は難しい」という嘆きに象徴されています。

 英語であれば、相手がメッシやクリスチアーノ・ロナウドであっても、「ステップバック」といえばボールから離れます。しかし日本語で「下がれ」と命じればまるでケンカを売っているようですし、「下がってください」ではお願いしているみたいです。「下がりなさい」や「下がって」がいちばんよく使われそうですが、これでも“上から目線”を感じる選手はいるでしょう。

 こうしてJリーグを裁く国際主審は、英語で行なう国際試合とちがって、日本語のレフェリングはなぜこんなにややこしいのかため息をつくことになるのです。

 同じことは、道路工事の交通整理にも当てはまります。