今回は冒頭で、大胆かつ新太郎に…いや、大胆かつ端的に言い切ってしまいます。「ダジャレは地アタマがいい人同士がたしなみ合うクリエイティブな遊び」です。

「地アタマがいい」ですから、決して成績がいいとか数値で測れる基準ではなく、何といいましょうか、いい意味で要領がいい、バランス取って生きている人。地アタマがいい、つまり反応が早い。論理をビジュアルに置き換えることができる「体育会的な脳みそ」を持つそんな人たちこそ、この、言葉と言葉を結びつける遊びを愉しめるのです。

 逆に言うと、ダジャレの構造的な深みに気づかずイメージだけで見下している人には、この粋な遊びの神髄は伝わらないということでもあります。よって無理をすることはありません。脳みそのシワを笑いによって増やしていきたい人の開かれたコミューンとしてつながって、ダジャレをたしなんでいきましょう。

 急にそんなこと言われても自画自賛のように思われることでしょうから、「見立て」とはなんぞや? そして、見立て作業がなぜ地アタマの良さと結びつくのか順を追って説明していきます。

落語、日本庭園、歌川国芳も!
「見立て」は日本に昔から根付いている

「見立て」という考え方の応用範囲は多岐にわたりますが、極力ベタな言葉でシンプルに言うと、<あるモノや言葉の似たところを見つけて当てはめて愉しむこと>というところでしょうか。詳しくは後述しますが、もっとも身近なところでは<例え話>があります。他にイメージしやすい例では、落語家が箸を扇子で表現することなんかも。

 日本では昔からこの見立てを暮らしや文化の中に取り込むことが特に盛んでした。よく知られた代表的な例では、日本庭園の様式、枯山水。石で島を、敷いた砂に描いた線で海を、など雄大な自然の風景を、人間が加工できるものを用いて、ぐぐっとスケールダウンして造作する。

 そこにはモノを作って具体的に何かに役立たせようなどという、せちがらい目的は存在しない。できあがったものをただただ「愛でる」という心の潤いがあるだけ。これが文化の本質ですね。これにいち早く気づき、東北弁で「オレは絶対にそのあたりを愛でるス」と力説していた音楽家が愛でるスゾーンです。

 枯山水はほんの一例中の一例。江戸時代にはかなり見立て文化が盛んであり、浮世絵にはその精神が取り込まれているものも。

 最近になって一躍脚光を浴び始めた歌川国芳がその代表です。たくさんの人体で顔が構成された作品『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』や、なまずと言う文字に猫を当て込んだ『猫の当字 なまず』など、ある物体のパーツに異質の物体を置き換えて構成していくのも、ビジュアル方面見立て方法のひとつです。