「このままでは1000万人の餓死者が」と予想された終戦直後に生まれた生活保護制度は、現在も生命を守り、明日へとつなぐ制度だ。今回は、母乳も出なくなるほどの飢えの中、生まれたばかりの赤ちゃんともども生活保護に生命を救われた一家を紹介する。生活保護制度は、その後の一家にとって、どのような存在となっているのだろうか?

産休中の「派遣切り」で壊れた
夫妻と3人の子どもたちの生活

最寄り駅からアサコさん宅に向かう途中の風景。再開発が進む駅近辺から15分ほど歩くと、田畑や林の中に住宅の点在する風景が広がる 
Photo by Yoshiko Miwa

 アサコさん(38歳)一家が暮らす埼玉県南部の町を訪れたのは、台風一過、晴れ渡る秋空の一角に鰯雲の浮かぶ土曜日の午後だった。

 ここ10年ほどで急激に開発が進んだという駅周辺には、ショッピングセンターや医療ビルが立ち並ぶ。しかし駅前を離れて県道を進んでいくと、林があり、竹やぶがあり、畑があり、戦前に建てられた昔ながらの農家と思われる住宅が点在している。さらに進んでいくと、食品・自動車部品などの工場の立ち並ぶ地域がある。その先に、古ぼけた建て売り住宅の立ち並ぶ一角がある。

 最寄り駅から、ゆっくり歩けば30分ほどかかりそうなアサコさん一家の住まいは、1階・2階合わせて3部屋に浴室・トイレ・ダイニングキッチン。家賃は6万4000円。昭和44年に建てられたという木造家屋に、アサコさん・夫(37歳)と高3~4歳の5人の子どもたち、合わせて7人が暮らしている。

 ドアを開けて玄関に入ると、大小さまざまな子どもの靴が、容易に数えきれないほど並んでいる。「出しておく靴は、1人2足まで」というアサコさん手書きの張り紙がある。

 玄関に出てきた4歳ほどの男の子は、「こんにちは、ヤマザキコウヘイです」と礼儀正しく挨拶する。私も「こんにちは、お母さんの友達で、みわと言います、よろしく」と挨拶する。そのうちに、来客に気づいた子どもたちが、次から次に奥から出てきて、「こんにちは、ヤマザキアズサです」「こんにちは、ヤマザキヒトシです」と挨拶する。子どもたちは、高3女子・中1女子・小5男子・小1女子・4歳男子の5名だ。

 食卓でアサコさんと話していると、小5のヒトシ君が「お母さん、麦茶飲みたい」とコップを持ってやってきた。食卓の上のポットから麦茶を注いでもらうと、にっこり笑って、アサコさんに「ありがとう」と言う。アサコさんも笑顔で「どういたしまして」と答える。

 アサコさん一家は、現在小1のアズサちゃんが生まれて間もなかった2010年、生活保護を申請した。2007年、上の3人の子どもたちを連れて元夫と離婚し、現在の夫と再婚したアサコさんは、夫とともに、派遣社員として工場でフルタイム就労していた。しかし2009年、アズサちゃんを妊娠して産休に入った直後、「派遣切り」によって、職と手取り月額16万円程度の収入を失った。夫もできるだけ夜勤の回数を増やすなど、収入を増やす努力をしたが、ケアを必要とする3人の子どもがいる状況では限度があった。夫の手取り月額18万円程度の収入だけでは一家の生活は成り立たず、わずかな貯金もアズサちゃんの出産で使い切ることになった。