“経済学や金融”と“現代アート”――。
一見、全く関係がないこの2つには共通点がある。そう聞くと、多くの人が首を傾げるのではないでしょうか? その共通点とは、「底流に“宗教観”が流れている」こと。その宗教観を読み解くことこそ、“今、日本人が果たすべきこと”を理解するカギであり、日本の未来を考えるうえで大きなヒントとなるのです。
超長期的な視点で経済を分析した『なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?』の著者・松村嘉浩氏と、『アートにとって価値とは何か』(幻冬舎)の著者で、世界的な現代アーティストの会田誠氏や山口晃氏などを擁するミヅマアートギャラリーを主宰する三潴末雄氏。ふたりの出会いは化学反応を起こしたような異色の対談となり、松村氏が著書で伝えきれなかったことを補完する内容になりました。

米国の国策として発展した現代アート

松村 先日、東京都現代美術館で開催中の「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」に、撤去問題(※)で話題になった会田誠さん一家の作品を見に行ってきました。

※ 東京都現代美術館に「展示内容が子ども向けではない」というクレームが1件入ったことで、美術館側から会田氏に作品の改変・撤去要請が入った問題。会田氏側はこれに反論を表明し、原状のまま展示を続けられた(参考記事)。

三潴 ありがとうございます。いかがでしたか?

松村 「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」はとてもすばらしい内容だと思いました。“平和のためにはグローバリゼーションを止めて鎖国すべし”、という提言はアーティストの方にしかできない極論かもしれませんが、真理を突いた話だと思いますし、私の主張とも共通点が多くあります。正直、なぜあれが問題になったのか私にはわかりません。

三潴 最近の日本には「もの言えぬ雰囲気」と言ってはいけない「同調圧力」が蔓延しだして、お上(文科省や時の首相)に対する批判が封じられている傾向があります。会田家の檄文の内容は穏やかな家庭内の政治談義的なものでしたが、「文部科学省に物申す」の檄文スタイルや、首相に似た男が何やら過激なことを言っている映像を展示していると曲解して、美術館側が自主規制をかけてきたのです。もし美術館が強制的に撤去したならば、美術館の自殺行為となるところでしたが、最後まで展示が継続できて良かったです。現代アートの世界にいると、一般の日本人の方よりも社会的な事象やグローバリゼーションの問題等に敏感にならざるをえません。というのは、現代アートは戦後の米国で生まれ、米国の覇権とともに歩んできたものですから、日本人アーティストは、米国がつくったグローバル・スタンダードの中でコンセプトを考えて生きていかなくてはいけないのです。
 少し長くなりますが、ダイヤモンド・オンラインの読者の方々は現代アートに関してそれほどご存知ではないかもしれないので、まず現代アートの話をさせてください。

松村 私もぜひ伺いたいです。

三潴 さきほど申し上げたように、現代アートが生まれたのは戦後の米国です。第2次大戦で本土が傷つかなかった米国は覇権国への道を歩むわけですが、覇権国にふさわしい文化がありませんでした。それまでのアートの中心は、パリでありヨーロッパでしたから。しかしながら、第2次世界大戦の最中に多勢のユダヤ系のアーティストが米国に亡命して、戦後に彼らが活躍し出すのです。ヨーロッパが戦争で疲弊している間に、経済的にも文化的にも米国はイニシアティブを握り、世界のリーダーとして共産主義と戦い出したのです。いわゆる東西の冷戦の始まりです。そして冷戦時代にある有名な事件が起きます。ソ連のフルシチョフ書記長が訪米した際、ある抽象画展覧会を観て「まるでロバの尻尾で描いた絵だ」と酷評した、「ロバの尻尾」事件(1962)が起きたのです。

松村 ああ、それは聞いたことがあります。フルシチョフは、米国を侮蔑したつもりだったのかもしれませんが、逆に田舎者の共産主義者には抽象画はわからないというのが露呈した事件ですね。

三潴 ええ。これを契機にして、米国で生まれた“共産主義者には理解できない”抽象画――そして抽象表現主義を、米国の文化として世界に知らしめる戦略に乗り出すのです。また、抽象表現主義を米国の文化としようとしたのは、それまでのアートの中心だった欧州の芸術の価値を否定しようとする意味合いもありました。こうして、冷戦構造の中で、軍事力や経済力だけでなく、文化や芸術も自分たちの国が優れていて覇権国にふさわしいことを誇示しようとするわけです。亡命ユダヤ人のアーティストたちは一神教ですから、偶像崇拝を禁じるその教えに従い、抽象表現にのめりこんでいったのです。

松村 私も少しだけ現代アートを勉強したのですが、クレメント・グリーンバーグという美術評論家が、一般にはわかりづらい前衛的な抽象表現主義に、理論的権威を与えたんですよね。そして、それは国策に加担した文化的プロパガンダだと批判されている。

三潴 そのとおりです。1964年に米国のアーティストのロバート・ラウシェンバーグがヴェネツィア・ビエンナーレで最優秀賞を受賞して「アメリカン・ポップの来襲」と騒がれたのですが、このときなんとアメリカ政府は、軍艦で作品を運び込んだのです。

松村 軍艦ですか!

三潴 これは現代アートが米国の国策であることを示す端的な例ですが、このように現代アートが米国の文化政策の中心となっていき、米国の覇権が確立されていくにしたがって、米国のアートがグローバル・スタンダードとなっていくのです。そして、もうひとつの重要なポイントは、米国によって市場原理がアートの世界に本格的に導入されたことです。

松村 市場原理、というと?

三潴 それまでのアートは1枚1枚の絵に対して価値をつけていたので、マーケットは限定的でした。ところが、アンディ・ウォホールが登場し、ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』という本を書いたように、シルクスクリーンのように複製印刷されたものにも価値が生まれてきた。たくさん作品が生まれれば、大衆の需要が喚起されます。つまり、市場が爆発的に大きくなっていくのです。米国はホームパーティ文化ですから、アートを家に飾って見せびらかしたいという欲望があり、それを煽ったわけです。松村さんの本にも欲望が需要を喚起するお話があったでしょう。

松村 「アートを理解している人間」として見られたい、という欲望を生み出すことができたわけですね。

三潴 現在においても、世界的に活躍している現代アートの作家の多くはルネッサンス時代のような工房作家です。工房でスタッフを使い、作品を量産できることが求められています。そうしてたくさんの作品が作られることで流通市場が発達し、アートの世界に本格的なマーケットが生まれるのです。しかしそうなると、逆に市場原理がアートの世界を動かすようになっていきます。アートが芸術的な価値から乖離して一人歩きをはじめ、“色のついた株券”と化し、“アート産業”ともいえる発展を遂げていくということです。

松村 国策に乗っかり、理論的背景を与えられ世界を席巻したアートが、今度は市場原理に則って展開されてきたというわけですね。

三潴 そのとおりです。そして、これを主導したのは、戦争で欧州を追われ米国に亡命してきたユダヤ系の人々です。

ユダヤ系知識人が米国の経済学とアートを主導した

松村 なるほど。言われてみれば、先ほどから出ているグリーンバーグやラウシェンバーグはユダヤ系の名前ですね。実は、全く同じ流れが経済学の世界にも存在します。ご存知のとおり、現在の経済学の主流は米国です。それは、ノーベル経済学賞を米国がほぼ独占していることからも明らかでしょう。そんな米国の経済学の主流である新古典派経済学が、レオン・ワルラスが唱えた一般均衡論をフレームワークとしてメインストリームを形成したのは、1950年代です。

三潴 ほー、経済学も。

松村 はい。それまでの米国の経済学は、社会科学的・人文学的世界でした。しかし、ヨーロッパ大陸での戦乱が亡命知識人、特にドイツ語圏のユダヤ系学者を大量に米国へ向わせたことで大きな変化が起きます。ドイツ語圏のユダヤ系学者に多い論理実証主義者たちの科学観が、人文学的な世界だった米国の経済学を駆逐して、論理実証主義的=数理的(自然科学的)経済学に置き換えていったのです。そして、米国が覇権国になっていくなかで、ノーベル経済学賞が米国に独占される形で権威づけられ、グローバルの基準となっていったのです。

三潴 アートとまったく同じ流れですね。しかもアートはその存在自体が矛盾をはらんでいます。精神的な作品であると同時に商品であるという、コインの裏表みたいな関係ですね。

松村 さらに、アートの世界の“抽象画”と経済学の“新古典派”には共通点があります。それは“宗教観”です。

三潴 宗教観?

松村 ええ。主導した人たちが欧州からの亡命ユダヤ系の人たちなので、ある意味、当然と言えば当然なのですが。宗教に大きなこだわりがない日本人にとってわかりづらいのは、先進国である米国における“基準”が特定の宗教に基づくイデオロギーに依存している、この意外な事実でしょう。逆に、日本人自身があまり気づいていない日本人の特殊性は、宗教に基づく特殊なイデオロギーがないということです。

三潴 宗教が底流にあるというのは疑いがないですね。そもそも、なぜ米国の現代アートが抽象表現主義なのかと言えば、ユダヤ教が偶像崇拝を禁じている――つまり具象を認めていないことと深く関わっていますから。
経済学の“新古典派”はどういう世界観なのですか?

松村 先ほども少しお話しましたが、新古典派経済学は一般均衡論をフレームワークにしています。一般均衡というのは、この世のありとあらゆる財は、それぞれの財の需要と供給が一致する価格に影響を受けて、相互依存の関係――「全ては全てに依存する」――にあるとするもの。つまり、市場に任せて完全競争を行なえば、全ての財は相互に依存する関係なので、社会全体がこれ以上変化しない均衡状態に至るとした理論です。この「全ては全てに依存する」という考えは、この世に(絶対)神の意思ならざるものは一つとして存在しないという、まさにユダヤ・キリスト教のような一神教における決定論の世界観なのです。

三潴 経済学に関しては専門でないのでよくわかりませんが、ちょっと非現実的な議論だと感じます。

松村 おっしゃるとおりで、この理論は時間の概念が現実的ではありません。この世に無限にある財の均衡を計算しようとすると、無限に時間がかかってしまいますから。そういう意味でも、一瞬で計算できる全知全能の絶対神が世界を支配しているという世界観が前提になっているのです。
 新古典派の世界は、現実と切り離されたモデルの中で、数学的な整合性を突き詰めていっているわけで、ふつうに考えればモデルは現実的ではないのですが、そこは無視というわけです。一見、数学的なアプローチを用いていて科学的に見えるのですが、その実、宗教に基づくイデオロギーが底流にあるわけですね。

三潴 あ、松村さんの作品の中に登場する教授は数理経済学者ですが、こういったフレームワークを皮肉ったというわけですか?

松村 鋭いご指摘ありがとうございます。実は、そのとおりです。親しみをもって読んでもらうために数学を嫌がるちょっとおバカな女子大生を登場させたくて数理経済学ゼミを舞台とした部分もあるのですが、主人公であるMIT出身の数理経済学者が自己否定するような内容を講義していくというのは、この本のメインテーマの一つであるアベノミクス批判、ひいてはその理論背景である新古典派・マネタリスト批判を、物語全体でやろうとしたというわけです。残念ながらそこまで気づいてくれる方はいらっしゃらなかったのですが。

三潴 なるほど。実はコンセプチュアルアートのごとく、暗喩が組み込まれていたわけですね(笑)。

松村 コンセプチュアルアートといえば、会田誠先生の初期の作品がとても感動的でした。
 黒いキャンバスに明るい丸い点がいくつもあって、一見抽象画のように見えるんですけど、実はその丸い点はマーブル・チョコレート。で、よく見るとキャンバスの隅にマーブル・チョコレートの箱が取り付けてある……。

三潴 この作品のタイトルは「死んでも命のある薬」です。会田の藝大の卒業制作の作品でした。ほどほどに抽象的な絵画を良しとする当時の大学の雰囲気の中で、まったく抽象的ではない表現方法を模索しようとする会田誠の決意表明のような重要な作品です。マーブル・チョコレートや花火といった子供でも分かるモチーフを使って、存在や芸術に関する思索を込めたコンセプチュアルな絵画作品を制作したんだと思います

松村 ええ。三潴さんの本を読んで米国の抽象表現主義の意味がわかっていたので、会田さんが若いころに全盛だった米国の抽象表現主義に決別して、具象の道という険しい道を行く覚悟が感じられて感動的でした。

三潴 長岡の新潟県立近代美術館の会田誠展に行かれたのですか?

松村 はい、行ってきました。会田誠先生の大ファンなもので。
 

三潴末雄(みづま・すえお)

東京生まれ。成城大学文芸学科卒業。1980年代からギャラリー活動を開始、1994年ミヅマアートギャラリーを青山に開設(現在は新宿区市谷田町)。2000年から活動の幅を海外に広げ、国際的なアートフェアに積極的に参加。消費文明の激流に抗した毒と批評性にあふれた作家を紹介、「ジパング展」等の展覧会を積極的にキュレーションし、日本、アジアの作家を中心に世界に紹介し続けている。2008年に北京(現在は事務所)、2012年にシンガポールにギャラリーを開設。2014年『アートにとって価値とは何か』を幻冬舎より出版。

 ※後編は明日11/17(火)に公開予定です。