目の前の作業に行き詰まり、新たな発想を必要としている――こんな時、別のタスクへと移ることで、ひらめきの余地が増える。これは単なる気分転換にとどまらない、「インキュベーション」(無意識下でアイデアが育つ)という心理学的な効果であるという。


 優れた洞察とは、芸術を司る女神である9人のミューズが与えてくれるもの――古代ギリシャ人はそう考えていた。ミューズはギリシャ神話で生身の人間にインスピレーションを与える存在だ。現代ではミューズを信じる人はほとんどいなくなったが、私たちはいまだに「突然のひらめき」に関する逸話を聞くことが大好きだ。ニュートンとリンゴ、あるいはアルキメデスと浴槽のような(これらもまた一種の神話なのだが)、ひらめきのストーリーに聞き入り、それを人に話したくなる。

 しかし、仕事上クリエイティブであることが求められる人にとって、こうしたストーリーはあまり役に立たない。自分がひらめきを得るにはどうすればよいか、教えてくれるわけではないからだ。長時間散歩したり、熱いシャワーを浴びたりすればいいアイデアが浮かぶのかもしれないが、仕事が立て込んだ平日の勤務中にそうそうできることではない。

 女神ミューズの存在は、研究ではまだ確認されていない。しかし「ユリイカ」(eureka:ギリシャ語で「ひらめき」)が起こる仕組みや、ひらめく瞬間の頻度を高める方法についてなら、少しは解明されてきたことがある。

 アイデアが突然浮かぶ時、なぜ明かりがパッと灯ったように感じるのか。それは、ひらめきの瞬間が訪れるのは目の前の課題に意識を集中させていない時が多いからだ。心理学者はこの段階を「温め期」(孵化期)と呼ぶ。ここでの「温め」(incubation)とは、目の前の問題への取り組みをいったん中断・放置している状態のことである。クリエイティブな仕事で高い生産性を実現している人はしばしば、作業を意図的に中断し、小休止を挟む。その間に無意識下でアイデアが次第にまとまってくることを、知っているのだ。あえて同時に複数のプロジェクトを進めるという人もいる。1つのプロジェクトに意識を集中させている間に、他のプロジェクトを無意識下で温めようというのが狙いだ。温め期を経てアイデアが浮かぶと、ニュートンやアルキメデスに啓示をもたらしたものと同じ力が自分にも働いたように感じる。

 シドニー大学のソフィー・エルウッド率いる研究チームは数年前、無意識下での温めが創造的な発想を促進することを示す、実証的な証拠を発見した。実験では、心理学を学ぶ学部生90名を3つのグループに分け、どのグループにも「代替用途テスト」(Alternate Uses Test)を課した。これは、ありふれた物の用途を思いつく限り多く挙げるよう求めるテストで、被験者には1枚の紙を何に使えるか挙げてもらった。思いついた用途の数を、拡散的思考(divergent thinking)の尺度とした。拡散的思考は創造性の重要な要素であり、ひらめきに大きく寄与する。