NHKやテレビ東京、日経産業新聞などで話題の「マレーシア大富豪」をご存じだろうか? お名前は小西史彦さん。24歳のときに、無一文で日本を飛び出し、一代で、上場企業を含む約50社の一大企業グループを築き上げた人物。マレーシア国王から民間人として最高位の称号「タンスリ」を授けられた、国民的VIPである。このたび、小西さんがこれまでの人生で培ってきた「最強の人生訓」をまとめた書籍『マレーシア大富豪の教え』が刊行された。本連載では、「お金」「仕事」「信頼」「交渉」「人脈」「幸運」など、100%実話に基づく「最強の人生訓」の一部をご紹介する。

マレーシア大富豪・小西史彦氏のご自宅

マレーシア大富豪との出会い 

 車窓をオレンジ色の外灯(がいとう)が次々と流れていった。

 東京から南へ約5500km。クアラルンプール国際空港を経由して約8時間のフライトを終え、マレーシア北部に位置するペナン国際空港に着いたのは日没後だった。暗闇に包まれているため、「東洋の真珠」と呼ばれるペナン島の美しさはわからない。静かな車内の後部座席から見えるのは、外灯に照らされた路面だけ。ゆるやかに蛇行(だこう)するオレンジ色に染まったハイウェイを、車は滑るように走り続けた。

「タンスリのお宅まで、あと20分くらいです」

 マレー人の運転手が、おだやかな口調で教えてくれた。「タンスリ・コニシ」。これから出会う人物は、マレーシアでそう呼ばれている。「タンスリ」とは、マレーシア国王から与えられる民間人として最高位の名誉称号。いわば貴族だ。想像もつかない世界を生きる人物と、間もなく対面するのか……。そう思うと、緊張が高まった。

 きっかけは3ヶ月前の東京――。
「本物に会いたくないかね?」
 この一言がすべての始まりだった。声の主は、日本人ならば誰もが知る一流企業の会長。その企業の「中興の祖」として不動の地位を確立した会長への、数ヶ月に及ぶロング・インタビューが終わろうとしていたときだった。

 その会長は、敗戦後の焼野原で露天商から身を起こし、現代に至るまで過酷なビジネスの第一線を生き抜いてきた――あるマッキンゼー出身の経営者が「おそるべき人物」と評する――本物中の本物。その人物が「本物」と呼ぶとは、いったいどのような人物なのか? 興味をそそられないはずがなかった。それを察した会長は、数枚の文書をテーブルに置くと、こう言った。
「これに、彼の経歴をまとめてある。裸一貫で海外に飛び出して、ここまで成功した日本人を僕は知らない。興味があったら、連絡を寄越しなさい。紹介するよ」

 その場を辞すと、喫茶店に直行した。
 そして、コーヒーを注文すると、すぐに文書を取り出して目を通し始めた。そこに書かれていたのは、驚くべき経歴だった。

上場企業を含む約50社を築き上げ、「貴族」となった

 本名は小西史彦。
 1944年石川県生まれ。薬問屋を営む家の長男として生まれた生粋(きっすい)の日本人だ。東京薬科大学で薬剤師の資格を取り、教授の紹介で大手企業の内定を得るが辞退。実家を継がないことも父親に告げた。そして、薬局のアルバイトで生計を立てながら、日米会話学院で英会話を学び始める。海外雄飛(かいがいゆうひ)の夢を実現するためだった。

 転機が訪れたのは2年目。1967年に、日本政府が明治100年を記念して企画した「青年の船」に応募。英語力を武器に選考を勝ち抜き、東南アジア各国を歴訪するチャンスを得る。そこで、魅了されたのがマレーシアだった。

 1957年にイギリスから独立したばかりの若い国。「青年の船」で接した政府高官も若く、「自分たちの国をつくり上げる」という清新(せいしん)な志に満ちていたという。太陽が燦々(さんさん)と降り注ぐ美しい国土にも魅せられて、翌年には国立マラヤ大学に留学。1年間をマレーシアで過ごすなかで、この地で生きていこうと心が固まる。

 翌年、本格的に移住。結婚したばかりの妻とふたり、ほぼ無一文での船出だった。
 ところが、いきなり座礁する。ある日本企業がマレーシア連邦に設立した合弁会社の社員として働くはずだったが、この話がご破算(はさん)になってしまう。わずか2ヶ月で解雇。助け舟を出してくれたのは、合弁会社の社長だった。知り合いの華僑が経営する、シンガポールに拠点を置く商社への就職をあっせんしてくれたのだ。そこで任されたのが日本製の染料の輸入販売。こうして、小西氏は営業マンとしてのキャリアをスタートさせる。

 365日ほぼ休みなく、マレーシア全土の繊維工場に営業をかける毎日。車にサンプルを積んで、月に5000kmを移動するハードワークだったが、その努力が実り、取り扱い量は増加していった。シェアを奪われた数名の欧米人営業マンにつるし上げられたこともあったが、歯を食いしばって地を這うような営業を継続。揺るぎのない営業基盤を築き上げるに至る。

 ところが、またもトラブルに見舞われる。現地の商慣習としてやむなく約束した取引先へのリベートを、社長が横領。約束を反故(ほご)にされた取引先に突き上げられる事態に陥る。進退きわまった小西氏は、帰国を覚悟せざるを得ない状況に追い込まれる。

 しかし、禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし。「君がいなくなると困る」と、日本メーカーや取引先の華僑たちが小西氏の独立を支援。かねて住みたいと願っていたペナン島に商社「テクスケム・トレーディング」を設立。出資者のひとりである華僑の事務所の一角を間借りして、たったひとりでの独立を果たす。1973年9月、29歳のときだった。

 それから約45年――。
 たったひとりで始めたテクスケムは、幾多(いくた)の難局を乗り越えて、製造業や商社、飲食業など約50社からなる一大企業グループに成長した。1993年にマレーシア証券取引所に上場し、マレーシアのほかミャンマー、タイ、ベトナムなど7ヶ国で事業を展開。従業員数約8000人、売上高300億円を超える、マレーシアの国民的企業として高い知名度を誇っている。

 経済的な成功をおさめただけではない。日本から多くの投資を呼び込んだほか、大きな雇用を生み出すなど、マレーシアに多大な貢献をしたことが評価され、2007年には「タンスリ」の称号を授けられる。何の後ろ盾もなくたったひとりでマレーシアに渡り、辛酸をなめた男が、マレーシア国民の敬意を集めるVIPにまで登りつめたのだ。

 こんな日本人がいるのか……。
 それが、率直な感想だった。海外で働く日本人は100万人以上いるというが、孤立無援(こりつむえん)、徒手空拳(としゅくうけん)でここまで成功した日本人がいるだろうか? いや、日本人だけではない。世界中で、異国の地でこのような成功をおさめた人物が何人いるだろう? そう思うと、聞きたいことが山のようにあふれ出した。「どんな信条をもっているのか?」「どうやって多くの信頼を勝ち得たのか?」「成功の秘訣は何か?」「数々の苦難をどうやって乗り越えたのか?」「どんな人生観をもっているのか?」……。

 すぐに、会長に連絡を入れた。
「小西さんの経歴を拝読しました。ぜひ、紹介していただけませんでしょうか?」
「いいでしょう。彼に頼んでおくよ」
 こうして、小西氏にコンタクトするチャンスを手にしたのだ。

圧倒的な大豪邸

 気づくと、車はハイウェイを降り、市街地を走っていた。
 ジョージタウンと呼ばれる一角だ。イギリス植民地時代に建てられた洋館が立ち並ぶ美しい街並みは、世界文化遺産に認定されている。この一帯はビジネス街として現在も機能しており、小西氏の現在のオフィスもここに置かれている。

 市街地を抜けると、緩勾配の坂道を登り始めた。住宅街に入ったようだ。
「もうすぐですよ」
 ミラー越しに、運転手が微笑みかけた。しばらくすると守衛がいるゲートで停車した。運転手が守衛に一声かけると、ゲートが上がった。聞くと、ペナン島随一の高級住宅街の入り口だという。セキュリティのためにゲートが設けられているのだ。たしかに、車窓からうかがう風景は一変。道路の両脇には整然と街路樹が植えられ、その間を車はゆっくりと進んだ。外灯に照らされて浮かび上がる広大な敷地の屋敷を、いくつも通り過ぎて行った。

「到着しました」
 運転手はそう言うと、威厳のある門扉の前でスピードを落とした。正門の詰所にいる守衛に合図を送ると、門扉がゆっくりと開き始めた。運転手はハンドルを切りながら、門をゆっくりと通過する。そして、敷地の全貌を眼前にすると気圧されるような感覚を覚えた。

 どのくらいの広さだろう? サッカー・フィールド2面分は軽く超えるだろう。門扉を過ぎると、両側は広大な庭園。その真ん中をまっすぐ100mほどの石畳の路面が延びている。その先に、フランスの城のような大豪邸が、外灯のおだやかな光に照らし出されていた。車はゆっくりと進み、明るく照らされた玄関前に横付けにされた。

 車を降りて礼を伝えると、運転手は会釈を返して車を発進させた。あたりは物音ひとつしない。周りを見渡すと、手入れの行き届いた植木のなかに、見事な彫刻がライトに照らされていた。5段ほどの階段を上り呼び鈴を鳴らすと、ほどなくドアが開いてメイドとおぼしき女性が現れた。名前を告げると、笑顔で招き入れてくれた。

 2階まで吹き抜けになった広い玄関に入ると、左手にホールのような空間が見えた。その部屋の壁には巨大な絵画がかけられている。ボッティチェッリの名画「春(プリマヴェーラ)」だ。中世イタリアを思わせる白亜の柱も目に入った。

「こちらです」
 玄関から右手に延びる廊下を案内された。その廊下にも数枚の絵画が飾られている。左に曲がり、さらに進んだ突き当りに扉があった。女性が扉をコツコツ叩くと、中から張りのある男性の声がした。小西氏だ。女性は扉を開けると、中に入るように促した。

 全面ガラス張りの6角形の部屋だった。窓の外には樹木が植えられ、その向こうには丘陵が広がっているようだった。
「失礼します」
 一礼して部屋の中に一歩踏み出すと、ちょうど小西氏は椅子から立ち上がろうとしているところだった。とても70歳を過ぎているとは思えない、がっしりと引き締まった体躯。立ち上がると、こちらの目をまっすぐに見つめながら声をかけてきた。

「遠いところを、よく来てくれましたね。疲れたでしょう? どうぞ、腰をかけなさい」
 整髪料をつけて、綺麗に整えられた頭髪。鋭い眼光。張り出した顎のラインは、意志の強さを表しているようだった。大きな存在感を前に、思わずひるみそうになる。それを察知したのか、小西氏は微笑みながらこう言った。
「楽にしなさい。僕はごくごく平凡な人間ですから」
 峻厳に思われた顔をほころばせると、相手をホッとさせるような人懐こい表情に一変。一気に心をつかまれそうになる。

「とんでもない。ここまでの成功をおさめられたのですから……」
 そう言葉を返すと、目を伏せながらこう言った。
「いや、ほんとうにそうなんです。常々、平均的な日本人だと思ってきました。だから、すごい話を期待されても困りますよ。ただ、私は、普通の人がしないような経験を無数にしてきました。そのなかで学んだこともたくさんあります。それが、若い人たちのお役に立つとしたら嬉しいことです」

小西史彦(こにし・ふみひこ) 1944年生まれ。1966年東京薬科大学卒業。日米会話学院で英会話を学ぶ。1968年、明治百年を記念する国家事業である「青年の船」に乗りアジア各国を回り、マレーシアへの移住を決意。1年間、マラヤ大学交換留学を経て、華僑が経営するシンガポールの商社に就職。73年、マレーシアのペナン島で、たったひとりで商社を起業(現テクスケム・リソーセズ)。その後、さまざまな事業を成功に導き、93年にはマレーシア証券取引所に上場。製造業やサービス業約45社を傘下に置く一大企業グループに育て上げ、アジア有数の大富豪となる。2007年、マレーシアの経済発展に貢献したとして同国国王から、民間人では最高位の貴族の称号「タンスリ」を授与。現在は、テクスケム・リソーセズ会長。既存事業の経営はすべて社著兼CEOに任せ、自身は新規事業の立ち上げに采配を振るっている。著書に『マレーシア大富豪の教え』(ダイヤモンド社)。

大富豪が語る「成功の秘訣」は、「誰にでもできること」ばかりだった

 小西氏から与えられたのは5日間。
 仕事の時間以外はすべて取材に充ててくれた。4月6日に発売された新刊『マレーシア大富豪の教え』は、このとき小西氏が語ったことを編集してまとめたものだ。

 私たちビジネスパーソンは、そのほとんどが「持たざる者」としてキャリアをスタートさせる。そこから、どうやって成功をつかみ取っていくのか? どうやって充実した人生を切り拓いていくのか? 小西氏は、そんな切実な思いにヒントを与えてくれる、25の教訓を語ってくれた。

【選択】成功したければ、「誰もいない場所」を選びなさい。

【未来】「今」に集中すれば「未来」は拓かれる。

【リスク】「リスク」とは避けるものではなく、自ら取りに行くものである。

【非凡】「才能」があるから非凡なのではなく、「熱中」するから非凡に至る。

【お金】「お金」を貯める者は貧しくなる。

【自信】「自信」をもつより、「不安」を味方につけなさい。

【謙虚】人生は「上」からではなく、「下」から始めなさい。

 など、若くして異国にわたり、徒手空拳でビジネスを始め、一代で大富豪になった小西氏以外には語りえない「最強の人生訓」だ。重要なのは、そのどれもが「誰でもできること」だったこと。「誰でもできること」を徹底することで、必ず成功をつかみ、充実した人生を切り拓くことができるということだ。 関係者への影響を考え、実名の表記を控えた箇所はあるが、すべて実話で構成されている。本物の大富豪が、その成功の秘訣を明かした稀有な内容を、連載第2回以降、ご紹介していく。