「直虎肖像」 写真提供:須坂市立博物館

 直虎は若いころから漢学、国学だけではなく、蘭学や洋式兵学を熱心に学び、翻訳ができるほど英語も堪能でした。自らを「ストレートタイガー(直虎)」と呼び、大名になると早速、洋式軍制を導入します。彼自身は日本の武術の訓練を受けていたにもかかわらず、あえて洋式を取り入れたのです。さらに彼はカメラに興味を持ち、自ら自分の写真を撮っていました。

佐藤 当時としてはモダンな大名だったのですね。

ハウエル そうです。直虎は日本で最初に「自撮り」をした人かもしれません。自分で撮った自分の写真も残っているのです。しかし、彼の人生にやがて悲劇が訪れます。

 直虎は、1867年、将軍に就任したばかりの徳川慶喜から若年寄兼外国総奉行を命じられます。「若年寄」は幕府の中でもかなりの重職で、通常は譜代大名から選ばれることになっていましたが、直虎は外様ながら抜擢されたのです。「外国総奉行」は、今で言えば、外務大臣のような役職です。直虎が自ら学んでいた洋学の見識が買われ、この抜擢につながったと言われています。

 1868年1月、鳥羽・伏見の戦いの後、大坂から江戸城に逃げ帰った慶喜に、若年寄である直虎は何らかの進言をした、と伝えられています。そしてその直後に切腹してしまうのです。33歳でした。

佐藤 幕府でこれだけ重用されていたのに、なぜ自害したのでしょうか。

ハウエル その理由は定かではありません。諸説ありますが、挙兵して薩長と戦うように、命を懸けて進言したのではないか、と言われています。鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜はこれ以上の交戦を望んでいませんでした。それを知りながら進言するということは、慶喜に刃向かうこと。それでも命を懸けて「戦うべき」と進言したのではないか、と。