読書の効用について語る人は多いが、その危険性を指摘する人も少なくない。その真意とは何か? そこには単なる「知る」を超えた、「学ぶ」ことの本質が隠されている。MBAを取らずに独学で外資系コンサルタントになった山口周氏が、知識を手足のように使いこなすための最強の独学システムを1冊に体系化した『知的戦闘力を高める 独学の技法』から、内容の一部を特別公開する。

戦略の設定は「テーマが主、ジャンルが従」で

 独学は、闇雲に勉強して非効率な時間の分散投資をするよりも、ある程度「学びのターゲット」を定めた方が効果的です。

 さてそうなると、当然のことながら「どのジャンルを学ぶか」という論点で考えてしまいがちなのですが、ここで注意しなければならないのは「独学の方針は、ジャンルではなく、むしろテーマで決める」ということです。

 言い方を換えれば、「テーマが主で、ジャンルが従」ということになります。これは独学を行うにあたって大変重要なポイントなのですが、不思議なことに世の中でほとんど指摘している人がいないので、よく注意してください。

 なにが言いたいのかというと、独学をするとなると、では「哲学を学ぶ」とか「歴史を学ぶ」とかといったように、ジャンルの設定から入ってしまいがちなのですが、大事なのはむしろ、自分が追求したい「テーマ」に方向性を持つということです。

 テーマとは、自分が追求したい「論点」のことです。たとえば、私の場合は「イノベーションが起こる組織とはどのようなものか」とか「美意識はリーダーシップをどう向上させるのか」とか「共産主義革命はいまだ可能なのか」とか「キリスト教は悩めるビジネスパーソンを救えるか」とかといったテーマを持って独学に臨んでいます。

 このテーマの数は時期にもよりますが、だいたいは五つから七つほどになります。これらのテーマに対して、自分なりの答えを追求していくために独学しているのであり、したがって、「何をインプットするか」は、これらのテーマについて何らかのヒントや気づきが得られるかどうか、というのが判断のポイントになってきます。

 一方、ジャンルとは「心理学」や「歴史」や「文学」など、コンテンツの分類科目のことです。一般に、書店の棚は「趣味」や「スポーツ」や「料理」といったジャンルによって分けられていますよね。

 独学の戦略を立てるというと、「どのジャンルを学ぶか」と考えてしまいがちですが、これをやってしまうといつまでたっても「知的戦闘力」は上がりません。なぜかというと、ジャンルに沿って勉強をするということは、すでに誰かが体系化した知識の枠組みに沿って勉強するということですから、その人ならではの洞察や示唆が生まれにくいのです。

 これは「読書」という行為についての陥穽に関わる話なのでちゃんと説明しておきたいと思います。一般に「読書」というものは、知的戦闘力を高めるという観点からは無条件に良いものだと考えられる傾向がありますが、これは危険な認識です。

 というのも、読書は、やり方によっては「バカ」になる危険性があるからです。この点を明確に指摘していたのが19世紀に活躍したドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウエルでした。ショーペンハウエルは、その名も『読書について』という本を残しています。この本は徹頭徹尾、読書の功罪における「罪」について考察された本です。たとえば、次のような指摘があります。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。

 その他にも「本を読むと、こんなにバカになる」という指摘がテンコ盛りなのですが、実は同様の指摘をしている人は少なくないのです。

 たとえば「知は力なり」という名言で知られるイギリス・ルネサンス期の哲学者、フランシス・ベーコンも、その著書『随想集』の中で次のように指摘しています。

信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。

 この指摘もまた、批判的態度を失った丸呑み読書の危険性について指摘するものです。知的戦闘力を向上させるという目的に対して、読書という手段は避けることができない。

 しかし一方で、ショーペンハウエルやベーコンが批判するような「丸呑み型読書」を繰り返していたのでは、確かに「物知り」にはなるかもしれませんが、領域を横断しながら、しなやかな知性を発揮するような「知的戦闘力」を獲得することは難しいでしょう。